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式部の父を出世させた「花山天皇」その悲しい顛末 一条天皇の即位で、道長の父・兼家が権力握る

東洋経済オンライン / 2024年2月4日 7時50分

さらに、寛和2(986)年には、估価法(こかほう)を制定。京中を対象にして、物価安定のための施策を行っている。

効果は薄かったようだが、奇行によるインパクトが大きすぎるあまり、花山天皇の治世でさまざまな政策が行われていたこと自体が意外に思えてしまう。

前代からの天候不順が相変わらず続いており、収穫量は減少していた。花山天皇を支える藤原義懐と藤原惟成らが中心となり、経済状況を好転すべく、奮闘していたのである。

突然の出家の裏に藤原道兼の陰謀

しかし、そんな花山天皇の治世は、わずか2年で幕を閉じた。寛和2(986)年6月、花山天皇は藤原道兼に導かれて内裏から脱出すると、そのまま東山の花山寺で出家してしまったのである。

突然の出家の背景には、藤原為光(ためみつ)の娘・忯子が死去したショックがあったと伝えられている。

花山天皇がいかに忯子を愛していたか。忯子に一目ぼれした花山天皇は入内してほしいと懇願。願いが叶うと、うれしさのあまり昼も夜も寵愛したらしい。

『栄花物語』では、こんなふうに描写されている。「女御」とは「忯子」のことである。

「女御が参内なさったので、帝は心底からうれしくおぼしめして、夜も昼もそのまま、お食膳にもおつきにならず、お部屋に入ってお寝みあそばした」

寵愛の結果、めでたく懐妊するものの、忯子は死去。花山天皇の悲しみは深く「御声も惜しまず、まったくみっともないくらいにお泣きあそばす」(『栄花物語』)とあるように、悲嘆に暮れた。

そんな状況を好機とみたのが、藤原道兼である。道兼は一緒に出家するフリをしておきながら、花山天皇の剃髪を見届けると、寺から抜け出して、そのまま帰ってこなかったという。

時期としては、花山天皇の退位は忯子の死から1年後のこと。その間にも、婉子女王が新たに入内している。ほかの女性で悲しみを紛らわせようとしたが、なおさら喪失感が深まったのだろうか。

一条天皇の即位で、兼家は権力を掌握

その間、道兼が粘り強く、出家させるタイミングを計っていたと思うと、陰謀もより恐ろしさを増す。そして、その背景には父・兼家の思惑があったことは、その後の展開をみても、間違いないだろう。

花山天皇が退位したことで、一条天皇が7歳で即位する。兼家からすれば、娘が生んだ懐仁親王が、ついに天皇へと駆け上ったことになる。

天皇の外戚として摂政となった兼家。紫式部の父・藤原為時が、花山天皇の退位によって、ようやく得た官職を再び失うのとは対照的に、兼家は権力を掌握していくことになる。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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