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5億円の義援金を北陸に贈る「村田製作所」の胸中 能登半島地震の被災地は「事業発展の礎」だった

東洋経済オンライン / 2024年2月14日 7時50分

村田製作所と北陸地方の縁は深い。1944年10月創業の同社が福井県に生産工場を設けたのは1951年のことだった。

きっかけは、創業者の村田昭氏と福井県窯業試験場(現福井県工業技術センター)の場長の会話だ。村田氏は場長から「ここの土質は良い。工場にも向いているのではないか」と勧められた。2人は元々、知人関係だった。

村田製作所は現在、スマホなどで多く使われる積層セラミックコンデンサー(MLCC)で世界シェア約4割を握り首位。連結売上高も直近実績の2022年度で約1兆7000億円を誇る、世界的な電子部品メーカーだ。

だが、当時は数ある中小企業の1つにすぎなかった。事業を拡大しようにも、都市部では人材の獲得競争に勝てない。福井県側の誘致は渡りに船だったというわけだ。国鉄(当時)の北陸本線が東海道本線と山陽本線に次ぐ利便性を持ち、製品の配送に便利なのも決め手になった。

そこに朝鮮戦争の特需景気や民放ラジオのブームが重なった。主力製品であるコンデンサーの需要は急拡大し、福井工場もフル稼働。地元の優秀な工員を確保できたため、京都では1日2000個しか製造できなかった部品を、同3000~3500個ほど作る能力を有していた。

雇用が生まれたことで、街もにぎわった。それを見た石川県や富山県など、近隣の自治体からも誘致が相次いだ。1984年までに3県で計13カ所の工場を設立し、現在まで続く。

とくに福井にはMLCCの主力工場もある。北陸は会社の黎明期を支え、発展の礎を築いた大切な土地なのだ。

村田氏は北陸を単なる生産地として見ていたわけではない。同社広報部の五井健裕氏は、「幹部候補生に生産技術を学ばせ、一人前に育て上げる『修行の場』としても、創業者は北陸の工場群を重視していた。その構想は当時のメモにも残っている」と語る。

福井で「修行」した中島社長の思い

実際、多くの社員が若い頃に北陸地方へ配属され、後の主力メンバーや経営層に名を連ねている。2020年に創業家以外で初の社長となった中島氏もその1人だ。20代の頃に福井村田製作所で勤務経験があり、現在は福井県越前市のふるさと大使も務めている。

その思い入れは深い。今回、東洋経済の取材に対し、中島社長は文書で以下のようにコメントを寄せた。

「私を含め、村田製作所の多くの従業員は、北陸の地で従事した経験がある。村田製作所と能登地方をはじめとした北陸との繋がりは非常に強く、今回の地震災害は、とてもひとごとではすまされない」

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