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藤原道長を抜き去り「スピード出世」意外なある男 道長の父・藤原兼家と兼通の熾烈なバトルも

東洋経済オンライン / 2024年2月18日 11時40分

出世のビッグウェーブにのった兼家がやったのは、自分の子どもたちを引き上げることである。先頭を走ったのが、兼家の長男・藤原道隆だ。

寛和2(986)年7月5日、34歳の道隆は三位中将から参議を経ることなく、一気に権中納言になっている。そのうえ、同日に詮子が皇太后になったため、皇太后宮大夫となった。

そして、7月20日に兼家が右大臣を辞職した際には、道隆は5人を追い抜き、権大納言にまで出世。2日後の22日に一条天皇が即位すると、その日に従二位となり、さらに4日後の26日に正二位になっている。同月に3回も昇進するのは異例のことだ。なりふり構わない兼家の手腕には驚かされるばかりである。

そんな道隆もまた、自分にしてもらったように、我が子たちを引き上げていく。

長男の道頼と3男の伊周をともに出世させていく。とりわけ道隆が目をかけたのが、嫡妻の高階貴子との間に生まれた伊周である。

正暦3(992)年、伊周は19歳の若さで、権大納言に任ぜられている。この時点で、権中納言だった道頼を含めて5人を追い抜き、叔父の藤原道長と並ぶこととなった。そして、翌々年には伊周は内大臣にまで上り、権大納言にとどまる道長を抜き去っている。

道長からすれば、8歳年下の甥に抜かれてしまったことになるが、「やがて人生の流れが来る」と思っていたのだろう。自分の将来を疑うことはなかったようだ。

甥に抜かれても威風堂々の藤原道長

『大鏡』によると、伊周が父の道隆と東三条殿の南院で弓の競射を行っていると、いきなり道長が現れて、ともに競技を行うことになった。

このとき官位は道長より伊周のほうが高かったが、道隆は弟をもてなす意味で、道長に先に矢を射させたという。すると道長が2本とも伊周に勝利してしまう。

これでは面白くないと、道隆や道隆に仕える者たちが「もう2本、延長しなさい」と言い出した。道長は胸中穏やかではなかったが、延長戦を受け入れると、1本目を射るときにこう叫んだ。

「自分の家から天皇や皇后がお立ちになるべきなら、この矢当たれ!」

その結果、道長の矢は見事に的の中心に命中。その次に射た伊周は、プレッシャーで手が震えてしまい、矢はあらぬ方向へと飛んでいってしまう。

続いて道長は2本目の矢を射るが、今度は「自分が摂政、関白になるべきなら、この矢当たれ!」と言い、やはり中心に当てている。

見かねた道隆は「もう射るな、射るな」と伊周を止めて、ゲームセット。何とも気まずい雰囲気が流れたが、道長は得意満面だったことだろう。

やや出来すぎた逸話ではあるが、道長の負けん気の強さをよく表している。その後、道長は甥の伊周との政争を制して、頂点へと上り詰めていくこととなる。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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