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与力は賄賂で大儲け?江戸時代の「不正」驚く実態 都市行政に練達しているからこそ便宜を図られた

東洋経済オンライン / 2024年3月3日 19時0分

幕末の頃に与力を務めた佐久間長敬(おさひろ)によると、与力には、老中や若年寄からの付け届けまであったという(佐久間長敬『江戸町奉行事蹟問答』人物往来社)。幕閣を構成する老中・若年寄にしても大名である。家臣たちの不始末により、その名前が表に出ることを懸念したのだろう。

南町奉行所の与力を務めた原家の天保11年(1840)の家計記録によれば、総収入121両余のうち諸大名などから得る収入は63両にも達し、収入の過半を占めた。

この数字には付け届けの品を金銭に換算した分も含まれるが、原家は100家もの大名家から付け届けを受け取ったという(南和男『江戸の町奉行』吉川弘文館)。

要するに、大名たちは保険を掛けたのであり、それはいわば必要経費だった。かたや、市中の見廻りにあたる与力や同心からすると、まさに役得であった。

訴訟の約7割は金銭をめぐる問題

江戸時代は訴訟の多い時代であり、欧米顔負けの訴訟社会だった。大岡忠相(ただすけ)が町奉行を務めていた時代の訴訟件数は、なんと4万7731件にも達している(享保3年(1718)に町奉行所が取り扱った訴訟数)。

その約7割を占めたのが、金公事(かねくじ)と呼ばれた金銭をめぐる訴訟である。4万件もの訴訟を、お白洲で一々裁いたわけではない。和解するよう当事者を勧奨するのが原則だ。その任にあたったのが、吟味方の与力だった。

刑事にせよ、民事にせよ、町奉行所が取り扱った案件は、吟味方与力が対応した。その時与力は、貸金トラブルが訴訟に発展しないよう、調停役を担うことも多々あった。先の佐久間によれば、持ち込まれた訴訟には、徳川御三家や宮門跡(みやもんぜき)が貸主の案件もあった。

宮門跡とは、皇族である法親王(ほっしんのう)が住職を務めた、最上級の格を誇った寺院のことである。御三家は言わずもがな、将軍職を継ぐ資格を持つ徳川家の親族で、大名のなかでは最上級の格を誇っていた。

御三家や宮門跡が貸主の場合、幕府は債権を強力に保護していた。そのため、御三家や宮門跡の寺院からの要請を受けると、町奉行所は借り主に対して返済を強く督促している。御三家や宮門跡としては、町奉行所の威光をちらつかせることができたのは、きわめて有利だった。

もちろん、与力はタダで動いたわけではない。貸金が無事に回収できると、貸主から手数料として、その1割を贈られた。ただし、その直後ではなく、時期を外した上で、それも時候見舞いという名目で贈られている。回収直後に謝礼として金銭を受け取ることは、さすがに与力も気が引けたのだろう。

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