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かつてタブー視「肉食」が日本で普及した納得理由 675年には肉食禁止令、たどると深い歴史的経緯

東洋経済オンライン / 2024年3月16日 19時0分

将軍からの拝領品とは、いわば神様から下賜されたものとして取り扱うよう求められたわけである。将軍の存在を当該の大名の家中にも改めて周知させようという幕府の目論見も透けてくる。

肉食が盛んになった時代に食べられていた「山鯨」

江戸っ子の間では鶏肉が人気を呼び、大名の間では将軍から下賜された鶴の肉が食べられたが、鳥類はともかく四つ足の動物となると、食用は一般的ではなかった。肉食をタブー視する風潮が枷になったことは想像するにたやすい。

「薬食い」という用語がある。養生や病人の体力回復のため薬代わりに肉食する風習のことだが、この用語にしても肉食をタブー視する風潮への配慮が窺える。

だが、江戸後期にあたる19世紀に入ると、獣肉を調理して提供する店が増えはじめる。それだけ、鳥以外の獣肉が食べられるようになったからである。

『守貞謾稿』によれば、天保期(1830~44)以降、肉食が盛んとなったという。獣肉を扱う料理屋の店先には「山鯨」(やまぐじら)という文字が書かれた行燈(あんどん)が掲げられたが、山鯨とは猪を指す言葉だった。

肉食をタブー視する風潮に配慮し、猪を山鯨と称して食べていたことがわかる。

随筆家の寺門静軒(てらかどせいけん)が書いた『江戸繁昌記』にも、猪などの獣肉を「山鯨」と称して食べることが天保期頃には盛んになったと記されている。

店内では、山鯨こと猪や鹿の肉に葱を加えて鍋で煮た料理が出された。幕末にあたる嘉永年間(1848~54)以降は、琉球鍋と称されて豚肉も出されるようになる。

江戸で獣肉を扱う料理屋は、北関東の山間部から材料の獣肉を得ていた。農民たちは猪鍋を「牡丹鍋」、鹿鍋を「紅葉鍋」などと称して食べており、鳥肉以外の獣肉を食べることにあまり抵抗感はなかった。とりわけ山間部ではその狩猟も盛んだったことから、獣肉の供給源にもなったのである。

牛肉も江戸時代から食べられていた

明治に入ると、牛鍋屋が繁昌したことに象徴されるように、文明開化の時流を受けて欧米の食文化が日本人の間に広まる。よって、牛肉が食べられるようになったのは明治からという印象は今なお強いが、実は江戸時代から食べられていた。

江戸中期より、彦根藩井伊家では将軍や御三家、幕閣の要人に牛肉の味噌漬けを贈るのが習いとなっており、贈答先ではたいへん喜ばれた。

いわゆる近江牛である。高給品ではあったものの、将軍や大名の間ではすでに牛肉が食べられていた(原田信男『江戸の食生活』岩波書店)。

古来、日本は稲作や仏教との関係で肉食がタブー視された。そうした事情は江戸時代に入っても変わらなかったが、鳥は広く食べられ、時代が下るにつれて猪・鹿・豚・牛といった四つ足動物の肉も食べられるようになる。

こうした肉食の拡大は、泰平の世を背景に食生活を充実させたい人々の食欲がタブーを乗り越えていった過程に他ならなかった。

安藤 優一郎:歴史家

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