はかない別れの後、ようやくわかった夕顔の正体 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑧
東洋経済オンライン / 2024年3月24日 16時0分
光君が全快したのは九月の二十日頃だった。ひどく面やつれしているが、かえって気品が出て、うつくしさに磨きがかかったようである。その光君は、しょっちゅうもの思いに沈んでは、声を出して泣いている。それを見て不審に思う女房もいて、物の怪が憑いてしまったのではないかと言い合った。
ある穏やかな夕暮れ、光君は右近を呼んであれこれと思い出話をしていたが、ふと言った。
「やっぱり合点がいかないな。あの人は、どうして自分の素性をあんなにも隠していたのだろう。本当に『ただの海士(あま)の子』だったとしても、あれほど思っていた私の心を何も知らないかのように頑(かたく)なに隠しているんだから、恨めしかったよ」
すると右近が言う。
つまらない誤解
「どうしてご主人さまが頑なに隠したりなどなさいましょう。そもそもあんなに短いあいだのことです、ご自分からいつ名乗ればよいのかおわかりにならなかったのではございませんか。最初から、異様な出(い)で立ちでこっそりいらしてましたから、本当に現実のこととは思えないとご主人さまはおっしゃっておいででした。あなたさまがお名前を隠していらっしゃっても、どなたかはうすうすわかっておいででしたよ。それでも、ただの気まぐれで、本気ではない遊びのお相手だから源氏の君とみずからお名乗りなさらないのだろうと、そのことをつらく思っていらっしゃいました」
「お互いにつまらない誤解をしたものだな。そんなふうに隠しておくつもりはなかったんだ。ただ、ああいう許されない関係ははじめてのことだった。主上(おかみ)からお小言をいただくし、ほかにもいろいろと気を遣う。女の人に軽口を叩いてもすぐに知られて評判になってしまう。でもね、あの夕方のできごとから、あの人のことがどういうわけか忘れられなくて、無理を押してでも逢いにいってしまった……それも思えば、こうしてすぐに別れてしまう縁だったからだね。そういうことだったのかと思いもするし、恨めしくもある。こんなにはかなく終わる縁なら、あんなに私を惹きつけないでくれればよかった。ねえ、もっとくわしく話しておくれ、もう何も隠す必要はないじゃないか。七日ごとの法要の供養も、名前がわからなくてはだれのためと祈願すればいいんだい」
それを聞くと、右近は口を開いた。
「わたくしが何を隠すことがありましょう。ご自身が秘めていらっしゃったことを、お亡くなりになった後でわたくしが軽々しく申すのもどうかと思っていただけでございます。──女君のご両親は早くにお亡くなりになりました。おとうさまは三位中将(さんみのちゅうじょう)でいらっしゃいました。女君を本当によくかわいがっていらっしゃったのですが、ご自身のご出世も思うようにいかないのをお嘆きで、お命まで思うようにいかずにお亡くなりになりました。その後、ふとしたご縁で、頭中将がまだ少将でいらっしゃった時分、女君の元にお通いになるようになって……。三年ばかりはご熱心にお通いになっていらっしゃいましたが、去年の秋頃、頭中将の奥さまのご実家である右大臣家から、たいそうおそろしいことを言ってきたのでございます。女君はともかく臆病でございますから、それはもうこわがられまして、やむなく西の京の、乳母が住んでおりますところにこっそり身を隠すことになりました。そこもずいぶんとむさ苦しく、住みにくくて、山里に移ろうかとお考えになっておいででしたが、今年からは方角が悪うございましたので、方違(かたたが)えのためにあのみすぼらしい宿においでになったのです。そんなところにあなたさまがお通いくださるようになったので、女君もずいぶんとお嘆きのご様子でした。並外れて恥ずかしがりやでございまして、人恋しくもの思いにふけっていると人から見られるだけでも恥ずかしがっておいでで……ですからいつもお目に掛かる時は、あっさりとしたご対応をなさっていたように存じます」
この記事に関連するニュース
-
次第に気持ちが離れる、光源氏の夫婦関係の複雑 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫⑤
東洋経済オンライン / 2024年5月12日 16時0分
-
「少女への思い」語る光君と、聞き入れぬ者の逡巡 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫④
東洋経済オンライン / 2024年5月5日 17時0分
-
光君が「まだ年端もいかぬ少女」の虜になった事情 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫②
東洋経済オンライン / 2024年4月22日 14時0分
-
光君が「まだ年端もいかぬ少女」の虜になった事情 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫②
東洋経済オンライン / 2024年4月21日 17時0分
-
病を患う光源氏、「再生の旅路」での運命の出会い 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫①
東洋経済オンライン / 2024年4月14日 16時0分
ランキング
-
1ダイドー「樽缶コーヒー」終売の噂が拡散 担当者「終売の予定はございません」
ねとらぼ / 2024年5月12日 16時47分
-
2「料理に水道水をそのまま使う人」が多い都道府県は? 全国的には約6割が「そのまま使用」
オールアバウト / 2024年5月12日 11時50分
-
3「5年間の"ポイ活"で645万獲得」主婦の驚く稼ぎ方 稼いだポイントで家族旅行して家もゲット!
東洋経済オンライン / 2024年5月12日 12時0分
-
4“激安焼肉食べ放題店”の元店員が暴露。「客に“得させないようにする”3つのワナ」
日刊SPA! / 2024年5月8日 15時54分
-
5メルカリ歴10年の専門家が「実際に売れて驚いたもの」3選 思った以上に高値で売れたものも紹介
Fav-Log by ITmedia / 2024年5月11日 11時15分
複数ページをまたぐ記事です
記事の最終ページでミッション達成してください