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「ツンデレな道綱母」が藤原兼家にした嫌がらせ バカにされても大納言にまで出世した藤原道綱

東洋経済オンライン / 2024年3月31日 7時20分

(明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召し使ひの来合ひたりつればなむ)

不信感を募らせる道綱の母

なんとも軽い返事である。その後「いとことわりなりつるは」、つまり、「あなたが怒るのも当然だよね」と、とってつけたように言いながら、さらに、こう続けている。

「げにやげに 冬の夜ならぬ槙(まき)の戸も 遅くあくるは わびしかりけり」

意味としては「本当に、冬の長い夜が明けるのを待つのはつらいものだが、冬の夜でもない真木の戸が開かないのもつらいことです」。

君もつらかっただろうけど、せっかく行ったのに戸が開かないのもつらかったよ……と、結局のところ、謝る気はなし。

不信感を募らせる藤原道綱の母だったが、兼家は素知らぬ顔をするばかりだった。しばらくは「宮中に行く」と言い続けて隠すべきなのに、それすらもしなくなったことについて、藤原道綱の母はこう嘆いている。

「いとどしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや」

(不愉快に思うこと限りない)

なんともかみ合わない2人。飄々とした兼家の前に、道綱の母による「兼家追い出し作戦」は、不発に終わることとなった。

正妻と妾で待遇が異なったのは、本人だけのことではない。正妻との間に生まれた子と、妾との間に生まれた子では、待遇に大きな違いあった。

寛和2(986)年、兼家の策略による「寛和の変」によって、花山天皇は出家して、退位することになる。この一大プロジェクトにおいて、藤原道綱は、兄の道隆とともに清涼殿にある三種の神器を皇太子の居所である凝花舎に移すという役割を果たしている。

無事にミッションを果たした道綱だったが、兄の道隆だけではなく、弟の道兼や道長に比べても昇進は遅れている。

バカにされても出世した道綱

3人とも正妻である時姫が産んだ子だったから……ということもあるが、それだけではない。実際には、国母となった詮子と兄弟だったことも昇進の差となったようだが、道綱の母としては、やるせない気持ちだったことだろう。

もっとも、道綱の場合は、単純に能力が劣っていたともいわれている。藤原実資からは「一文不通」、つまり「文字が書けない」と揶揄されて、「あいつは自分の名前を書くのがやっと」と『小右記』に書き残されている。あまり仕事ができるタイプではなかったようだ。

それでも、異母弟にあたる藤原道長とは、気が合ったようだ。道長が政治の中心になるにつれて昇進を重ねて、長徳3(997)年には大納言となっている。

なんだかんだで、よいポジションに収まっているあたりは、さすが、したたかな兼家の息子である。


【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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