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道長が「試験官を監禁」改ざん迫る呆れた行為 兄である道兼の息子たち3人も次々とやらかす

東洋経済オンライン / 2024年4月7日 7時50分

ところが、いざ舞台に立って、楽器が最初の音を奏でると、「いやだ、私は舞わぬぞ」(「わざはひかな、あれは舞はじ」)と言い出したという。

小さい子に無理やり何かをさせようとすれば、大人の思うようにはいかないだろうとは思うが、その抵抗の様子がすさまじかった。結った髪を引きむしって、御装束をびりびりと破ってしまったのだ。父・兼家の前での大失態に、道兼が青ざめたのも無理はないだろう。

この誰もが気まずい場面で、機転を利かせたのが、頼れる長男の道隆である。突然に舞台へと登ると、福足君をうまくなだめながら、自分も一緒に見事に舞ってみせたのだ。これには兼家も満足し、道兼はもちろんのこと、ほかの人もみな感動したという。

それでも、福足君の素行が改善することはなかったらしい。『大鏡』では「蛇れうじ給ひて、そのたたりにより、頭に物はれて、失せ給ひにき」とある。蛇をいじめた祟りによって、頭に腫れ物ができて、福足君は若くして亡くなったと伝えられている。

夭折した福足君に代わって、道兼の嫡男として育てられたのが、次男の兼隆だ。紫式部の娘、藤原賢子と結婚したことでも知られるが、兼隆もまた乱暴者だったらしい。

『小右記』では長和2(1013)年の8月10日の記事に「藤原兼隆が厩舎人を殴り殺させた」と書かれている。

厩舎人とは、主人の馬を世話する従者のことだ。自分の日常生活を支えてくれている存在に、暴力を振るって死なせるなど、あってはならないことだろう。このとき兼隆は29歳と、十分に分別がつく年だったにもかかわらず、である。

さらに、長和3(1014)年の正月にも、兼隆はトラブルを起こす。『小右記』によると、藤原兼隆の下女が、藤原実資の下女と井戸の使用をめぐってケンカになった。すると、藤原兼隆の下女は「殴られて衣服まで奪い取られた」と兼隆に訴えた。

それを聞いた兼隆は怒って、藤原実資の下女の家を襲撃。破壊して略奪したというから、仕返しにしてもすさまじい。

結局、元凶となったトラブルについては、兼隆は自分の井戸でのことだと思い込んでいたが、実際には、実資の井戸だったと判明。一転して低姿勢になった兼隆。「あなたの井戸とは思っていませんでした。あなたの下女の品々は弁償します」と伝えたのだという。

次男の兼隆はどうもカッとするとエスカレートする性格だったようだ。3男の藤原兼綱も、寛弘2(1005)年正月の踏歌節会で、やらかしてしまう。

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