1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

道長の兄「道兼」頂点に君臨後"7日で死去"の衝撃 父である兼家に抱いていた複雑な思いとは

東洋経済オンライン / 2024年5月4日 8時40分

一方で性格は「老巧」(老練)で、男らしく、兄・道隆に対しても、つねに教え、諭すような人物だったとも書かれていますが、『大鏡』では道兼の性格に関してもよくは記していません。「無情な、酷いところがある」「人に怖がられる人であった」と書かれているのです。そして「だから、その子孫が栄えるのを見ずに終わった」とまで記されます。

道兼は、父・兼家の喪中であっても、慎むことはしませんでした。御簾を片っ端から開けさせ、念仏・読経をしなかったのです。そればかりか、人々を呼び集めて、『古今集』(古今和歌集)や『後撰集』(後撰和歌集)を見つつ、「戯言」に興じました。父の死を少しも悲しむようには見えなかったようですね。

とはいえ、道兼にも父である兼家に対する想いがあったようです。道兼は、父・兼家とともに、花山天皇を出家させたことで有名です。兼家は自身の孫である懐仁親王の早期の即位を望んでいたので、花山天皇の退位を画策したのでした。

それに協力したのが、道兼です。彼は天皇を内裏から抜け出させ、後ろ髪を引かれる想いの天皇を口説いて、元慶寺まで連れて行きました。道兼には(自分こそが、花山天皇を退位させた功労者)との想いがあったのです。

しかし、父の後任の関白には、兄・道隆が任じられます。道兼は、これに不満を抱いたのです。

先程述べた道兼の喪中の行いは、関白職が譲られなかった恨みからだと言われています(『大鏡』)。そんな道兼に、兄の死を受けて、念願だった関白の宣旨が下ります。道兼はたいそう喜んだといいます。その日のうちに、喜んで参内(宮中に参上)したのでした。

ところが参内する際に、道兼は、少し体調を悪くしたようです。道兼は(これは一時のことであろう。これくらいのことで、中止してはいけない)と体調不良ながらも、参内します。

すると、みるみるうちに、体調は悪化。殿上の間から退出することもできなくなるのです。人に寄り掛かり、何とかして退出する道兼。それを目撃した人々は(どうしたことか)と驚いたといいます。

一方で、道兼の邸は、主人の関白就任の喜びに包まれていました。殿のお帰りを今か今かと待ち侘びる人達。そうであるのに、主人が介抱されながら、苦しそうに帰宅したのだから、その驚きはどれほどのものだったのでしょうか。

邸の者は「殿はもしかしたら、亡くなられるのか」と裏でヒソヒソと噂し合ったようですが、表では「大丈夫でしょう。すぐによくなるはず」と言い合ったとのことです。

顔が青ざめていた道兼

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください