埼玉を走った「北武鉄道」超短命の知られざる歴史 東武・西武・南武以外に実は「北」もあった
東洋経済オンライン / 2024年5月10日 6時30分
2024年4月1日、南武線(川崎―立川間)が戦時買収によって国有化されてから80年を迎えた。南武線の前身は、1921年3月に設立された南武鉄道である。この社名に含まれる「武」とは、武蔵国のこと。現在の埼玉県、東京都、神奈川県横浜市・川崎市の大部分を含む地域の旧国名である。
【写真を見る】現在の秩父鉄道の羽生駅から行田市駅を経由し、熊谷駅に至る路線を運行していた「北武鉄道」とはどのような路線だったのか?
南武鉄道は残念ながら、設立から二十数年で国有化により消滅したが、東武鉄道、西武鉄道は、今も大手私鉄として存続している。
では「北武鉄道」は、歴史上、存在したことがあるのだろうか。結論を言えば、短期間ながら存在し、現在の秩父鉄道の羽生駅から行田市駅を経由し、熊谷駅に至る路線を運行していた。今回は、この北武鉄道とはどのような路線だったのか、追いかけてみることにする。
『のぼうの城』の城下町
北武鉄道に関する資料は極めて少なく、当時の新聞記事や『秩父鉄道五十年史』などにわずかに記載があるのと、「大正期地方鉄道の開業と地方企業者活動-北武鉄道会社の事例-」(恩田睦著。以下、恩田論文)という研究成果があるくらいだ。以下、これらの文献を参考にしつつ、その歴史を記す。
北武鉄道は、埼玉県北埼玉郡忍町(おしまち。現・行田市)
江戸時代には忍藩の藩領となり、享保年間(1716~1736年)に、忍藩主が藩士の婦女子に内職として足袋(たび)づくりを奨励したことから、足袋の生産が盛んに行われるようになった。明治20年代半ば以降は、ミシンや裁断機が導入されるなど機械化が進み、生産量が増大。同じく当地の著名な物産品である藍染め織物の「青縞(あおじま)」などとともに、各地に出荷するための効率的な輸送ルートが必要となった。
ところが、忍町は地域の商工業の中心でありながら、19世紀末~20世紀に至っても、なお鉄道空白地帯だった。
当時の北埼玉地域の鉄道の敷設状況を見ると、1883年7月に私鉄の日本鉄道によって、現・JR東北本線・高崎線の上野―熊谷間(日本鉄道第一区線)が開業し、1885年3月に吹上駅が開設されたが、忍町の中心からは4kmも南に離れていた(熊谷駅までは約6km)。
その後十数年を経て、1899年8月には東武鉄道が現在の伊勢崎線の北千住―久喜間を開業。1903年4月に川俣駅までの延伸にともない羽生駅が設置されたが、忍町の中心からは8km以上の道のりであった。さらに秩父鉄道(開業時は上武鉄道)が1901年10月、熊谷―寄居間を開業させたが、熊谷駅までは前記の通り約6kmの距離があった。
足袋の出荷へ「馬車鉄道」計画
そのため、忍町発の貨物は鉄道駅まで陸路で運ばれたが、「行田からは、加須を経て栗橋に至る県道はあるが、ひどい悪路」(『埼玉鉄道物語』老川慶喜著)だったため、忍町から主な販路である北関東・東北・北海道などへ製品を出荷するには、貨物を吹上駅(日本鉄道第一区線)に運んだ後、大宮駅や秋葉原駅へ移送し、日本鉄道第二区線(現・東北本線)に積み替えなければならず、時間と余分な費用がかかった。
こうした状況下で切望されたのが、北埼玉地域を横貫する鉄道路線であり、実際にいくつかの路線が計画された。そのうちの1つ、北埼玉鉄道(熊谷から忍、加須を経て、日本鉄道第二区線の栗橋までを結ぶ計画。1895年11月出願)の資本構成を見ると、東京市(当時)在住者が株主の過半を占めていたが、忍町の有力商工業者も名を連ねており、地元の期待の高さがうかがえる。
この北埼玉鉄道の敷設申請は1896年3月に却下されるが、直後の8月に再出願するという熱の入れようだった。さらに足袋製造業者らが、鉄道を所管する逓信大臣宛に横貫鉄道の必要性を訴える上願書まで提出している。だが、結局これらの計画はいずれも却下されてしまう(北埼玉鉄道は1897年5月に再度却下)。
このような挫折を経て、実を結んだのが、1899年4月に敷設認可を受けた忍馬車鉄道だった。同鉄道は吹上駅から忍町を経由し、長野村(現・行田市長野など)に至る公道上に軌道を敷設するという局地的な計画だった。発起人全員が忍町の商工業者で構成されており、他所の資本に頼ることなく、自分たちの力で最小限の交通を確実に実現しようという意図が読み取れる。
馬車鉄道不振の中「北武鉄道」計画
忍馬車鉄道は、1901年6月に吹上駅から行田下町(大長寺手前。現在、「行田馬車鉄道発着所跡」の石碑がある)までの約5.3kmが開業した。だが、開業後の経営は厳しく、旅客数を見ると、1902年には年間10万3965人(1日平均284人)の利用があったが、3年後の1905年には半分以下の年間4万5581人(1日平均124人)にまで落ち込み、経営難により解散している(数値は行田市郷土博物館提供資料による)。同年、新たに行田馬車鉄道が設立され、事業を継承したが、収支改善は見られなかった。
経営不振の要因は旅客輸送だけでなく、貨物輸送の面にもあった。そもそも足袋の輸送に、馬車鉄道がそれほど使われなかったのである。その理由について『行田の歴史:行田市史普及版』は、「有力な足袋業者の多くが自前調達の荷馬車で輸送したか、あるいは日本鉄道と提携した運送業者(鉄道貨物取扱業者)などに依頼したと推測される」とする。
足袋は軽量なので、吹上駅までならば、馬車鉄道の運賃を払わずとも自前の荷馬車で事足り、また吹上駅接続では、先に見たような貨物輸送問題の根本解決にはならなかったのだと思われる。
馬車鉄道の経営が振るわなかった一方、行田の足袋は、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)を通じて軍用足袋の特需がもたらされるなどした結果、「生産量は飛躍的に増大」(『行田の歴史:行田市史普及版』)していた。明治10年代後半に年間生産高50万足程度だったのが、明治30年代後半の1905年には445万足に達している。
こうした忍町の商工業の著しい発展に着目し、北埼玉エリアを横貫する鉄道を敷設しようという計画が、ここにきて再び持ち上がった。そして、その運動の中心にいたのは忍町の商工業者ではなく、羽生や加須の人々だった。
羽生の人たちは、熊谷―忍―羽生間を結ぶ北武鉄道を計画し、一方、加須の人たちは、熊谷―忍―加須―栗橋間を結ぶ埼玉鉄道を計画した。ほかにもいくつかの計画があったようだが、最終的にはこの2路線が競願となり、「北武鉄道側の勝利に帰した」(1911年3月9日付「国民新聞」)のである。
「二束三文に買収さるるが落ち」
だが、この北武鉄道計画に対して忍町の人々は、当初は興味を示さなかったといい、実際、発起人に忍町の商工業者は含まれていなかった。
その理由はいくつか考えられるが、まず、忍町の人々は横貫鉄道の必要性は認識していたものの、これまでに前述の北埼玉鉄道をあきらめ、自分たちの手で馬車鉄道を敷設した経緯がある。だから、「なにを今さら」「どうせ、またモノにならないだろう」という思いが、少なからずあったはずだ。
また、1917年7月8日付の「国民新聞」記事に「(北武鉄道の)将来の営業成績を観るに何れの方面より観察するも不振なるは予想するに難からず結局は東武鉄道等に二束三文に買収さるるが落ちにて」と記されているのは注目に値する。当初、羽生の有志の人々による活動だった北武鉄道計画は、敷設免許下付後には、東武鉄道社長の根津嘉一郎が取締役に就任し、筆頭株主にもなっていた。こうした大資本による実質的な経営支配の動きを、地元の人たちは嫌ったのである。
このように地元での理解が不十分なままでは、資金集めも思うように進まず、増資が必要になった際も、沿線割り当て分の出資交渉が難航した。そうこうするうちに1918年4月、北武鉄道の敷設免許は失効してしまう。
それでも、北武鉄道は解散することなく再出願を目指すが、ここで状況に大きな変化が生じた。それまで北武鉄道計画に対して距離を置いていた秩父鉄道が出資を言明したのだ。1919年3月6日付「国民新聞」に、次の記事がある。
「秩父鉄道が極めて冷静の態度に出で同問題(注:北武鉄道建設)の渦中に入る事を絶対的に回避し来れるが今度の新運動(注:再出願)に向つては秩父会社の幹部が公然同鉄道布設の有利有望なるを言明し相当株引受を約するに至りたる」
全通後1カ月で秩父鉄道と合併
この秩父鉄道の態度の変化には次のような事情があった。秩父鉄道は1917年9月に影森駅まで延伸し、1918年9月には影森―武甲間の武甲線(貨物線)を開業。セメント原料である武甲山麓の石灰石輸送を開始した。当時は浅野総一郎率いる浅野セメント(現・太平洋セメントの一源流)が、東京の深川工場の降灰問題を解決し、操業継続を決定するとともに、1917年7月からは新たに川崎工場の操業を開始するなど増産体制に入った時期であり、絶好の商機だった。
秩父鉄道は熊谷駅で官営鉄道と接続しており、東京方面への貨物出荷は可能であったが、運賃低減の観点から、北武鉄道を介して東武鉄道との連絡輸送を行うことが有望視されたのである。こうして事業の成算が立ち、北武鉄道はようやく着工にこぎつけることができた。
そして、1921年4月、最初の出願から11年を経て、ようやく羽生―行田(現・行田市)間が開通した。その後、資金不足から北武鉄道経営陣は、東武鉄道と秩父鉄道に合併を打診。これに応じた秩父鉄道との間で1922年4月に合併の協議(仮契約)が行われた。
こうした経緯から、行田―熊谷間の延長工事の一部は秩父鉄道によって施工され、1922年8月に羽生―熊谷間の全通(約14.9km)を果たし、その直後の9月に秩父鉄道に吸収合併されている。実際には合併に先んじて、8月から秩父鉄道による営業が行われていたようだが、書類上の日付だけを見れば、全通後、わずか1カ月で他社に合併されたことになる。
ここで疑問に思うのは、なぜ当初は北武鉄道の経営に意欲的だった東武鉄道ではなく、秩父鉄道と合併したのかということである。『秩父鉄道五十年史』には、「当時東武鉄道には、合併の意思がなかった」とわずかに書かれているにすぎない。
当時の東武鉄道による他社線の合併について見ると、1920年7月に東上鉄道(現・東武東上線)と対等合併している。東上鉄道は根津嘉一郎が社長を兼務し、東武とは姉妹企業のような関係にあり、純粋なM&Aではなかったが、それ以前にも東武は佐野鉄道(現・佐野線)、太田軽便鉄道(現・桐生線)を合併するなど、合併による路線拡張を行っている。
「東武+北武」なぜ実現しなかった?
しかも、1920年時点においても、依然として東武鉄道は北武鉄道の筆頭株主であり、また、北武鉄道の本社所在地を「免許の下付にともない羽生町から東京市の東武鉄道本社内に変更」(恩田論文)するなど、北武鉄道への関心を失っていたわけではない。さらに当地方の中心都市である熊谷への接続も魅力的だったはずである。
詳細の事情は不明だが、根津嘉一郎が1922年5月の臨時総会で秩父鉄道の取締役にも就任(北武鉄道取締役の資格において)していることから、全体としての調整を図ったということなのだろう。
なお、行田馬車鉄道は北武鉄道開業によって打撃を受け、間もなく廃止された。『行田市史(下巻)』には「大正十二年末に(線路が)取り外されて、文字通り終止符を打った」と記されている。馬車鉄道の廃止にともない行田自動車に改組され、自動車貨物運送および乗合自動車事業にシフトしていったのである。
森川 天喜:旅行・鉄道ジャーナリスト
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