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上手で流麗な文章が「まるで読まれない」根本原因 珍しいエピソードよりも熱烈に意識すべきこと

東洋経済オンライン / 2024年5月15日 15時0分

伝えたいことがないのならば、それはただの文字列の羅列でしかないという(写真:zon/PIXTA)

さまざまな媒体でバズを巻き起こしてきた人気ライターで、テキストサイト「Numeri」の管理人でもあるpato(ぱと)さんですが、文章を書き始めた当初、まったく誰にも読まれなかったときがあるといいます。

そこから脱却するためにもがく中で気づいた書き方の掟を、pato(ぱと)さんの著書『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。 読みたくなる文章の書き方29の掟』より一部抜粋・再編集してご紹介します。

人が「読みたい」と思うのはどんな文章か

ぼくはかつて、誰にも読まれない文章を発表したことがある。

それはべつに、「読まれなくていいや」と思って書いたのではない。「きっと読まれるだろう、ワクワク」と思いながら書いたのだ。

だから、その文章が自分以外たった1人にしか読まれなかったとわかったときは、ひどく落ち込んだものだった。

世の中には、たくさんの文章が溢れている。誰でも発信できるようになったというけれど、注目してもらえる人なんてごくわずかだ。一般人の他愛のない日常など、たとえば、「5000円を落とした」というたんなる不幸な告白など、誰にも読まれないだろう。まあそれは僕のことなんだけど。

誤解なきよう言っておきたいのは、こういった日常の事実が悪いということではない。事実は事実でいいのだ。その「5000円落とした」という事実はたいへんに悲しいことで、筆者にとってショックなことだった。けれども、その「事象」自体に希少性はない。つまり価値がないということだ。

これが、あまり日本人が行ったことがない場所、マニアックな国だとか宇宙ステーションだとかそういった場所で5000円を落としたのなら、その情報には価値がある。だれしも、宇宙ステーションで5000円を落とした話は聞きたい。果たして落ちるのか、浮いたりするんじゃないの、それは落としたという表現でいいの、と興味津々だ。

また、誰もが知っているような著名人やアイドルなどが「5000円を落とした」と書くことには意味がある。それを読みたいと思う人がたくさんいるからだ。

ただ、希少な場所でもない、そのへんのよく知らない一般人が「5000円を落とした」ことにあまり情報としての価値はなく、人は読みたいと思わない。

では、どんなものを読みたいと思うか。

それは、その人の主義主張が入った文章だ。たんなる感想ではなく、その事象を受けてこの人はなにを伝えたかったのか、それが込められた文章はただの日記とは一線を画する。この伝えたいことの有無こそが、人に読まれるために書かれた文章と、そうでない単なる日記との明白な違いになる。

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