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とにかく明るい「枕草子」清少納言が悲劇隠した訳 後世に名を残す名作、執筆し始めたきっかけ

東洋経済オンライン / 2024年5月26日 7時40分

清少納言が「枕でございましょう」と答えた理由については諸説があるが、『枕草子』を生んだ宮中での心温かな交流は、読んでいて気持ちがほぐされるものがある。

しかし、清少納言が仕えてからわずか2年後の長徳元(995)年に、道隆が急死すると、状況は一変する。関白の座は、道隆の弟である道兼が継ぐも数日後に病死。「七日関白」と呼ばれるとおり、短期政権で終わった。

次なる関白は道長か、伊周か――。そう周囲が注目するなか、あろうことか伊周は、弟の隆家とともに「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかして失脚。伊周は太宰府へ、隆家は出雲へと左遷させれることになった。

伊周と隆家の兄弟が不祥事を起こしたことで、定子は落飾。出家するという悲運の運命をたどることになる。

絶頂期からどん底へと一気に叩き落とされた中関白家。この失脚劇が周囲に与えたインパクトは大きなもので、藤原実資の『小右記』でもその顛末がつづられている。

枕草子では定子の悲劇に触れていない

だが、清少納言は『枕草子』で、定子が巻き込まれた悲劇について一切、触れていない。ひたすら明るく楽しかった頃の宮中を描きながら、思わず吹き出してしまいそうな、こんな毒舌も織り交ぜている。

「坊主はイケメンじゃないと説法を聞く気にもなれない」

「色黒で不美人な女と、汚らしい髭もじゃで、ガリガリにやせた男が、夏場に一緒に昼寝していた日には、目も当てられない」

何とかして、失意の底にいる定子を元気づけて、笑わせたかったのだろう。周囲からどんどん人が離れていく定子にとって、そんな清少納言がどれほどありがたかったことだろうか。

「かかる人こそは、世におはしましけれ」。一目見てその姿に感嘆した日からずっと、清少納言は定子を慕い続けたのである。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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