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道長の全盛期重なる「北宋」皇帝が日本に抱く印象 東大寺の僧侶が太宗から受けた様々な質問

東洋経済オンライン / 2024年6月2日 7時20分

長く不遇だった為時の能力をまさに時代が求めたともいえそうだが、日本にとって、長く国づくりのお手本だった中国との関係が、この頃にはずいぶん変わっていた。

「日本」と号しての外交が初めて行われたのは、702年のこと。公卿の粟田真人が遣唐使として唐にわたり、大宝律令の完成を報告したとされている。

しかし、794年に平安京に遷都されてから100年後の894年、遣唐使は廃止されることになる。

もはや国力が衰えた唐に危険を冒してまでいく必要はない――。そう考えて、遣唐使の廃止を提案したのは、菅原道真だった。その判断は正しかったらしい。唐は907年に滅亡することになる。

唐の滅亡後、華北中原には5王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が、その周辺には10国(前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩・荊南・楚・南漢・北漢)が乱立。「五代十国」と呼ばれる時代が始まる。そこから実に70年にもわたる混乱期を経て、979年に中国を再統一させたのが、宋だった。

その間、日本は何をしていたか。これまでは隋や唐から仏教・儒教・律令制などさまざまなものを取り入れたが、唐の衰退によって、日本独自の文化が形成されていく。7~9世紀に中国から取り入れた「漢字」をもとにしながら、10~11世紀にかけて「仮名文字」が作られた。

仮名文字の誕生によって、日本語ならではの表現方法が磨かれた。その結果、生まれたのが、『枕草子』であり、『源氏物語』だった。

そうして国風文化が盛り上がりを見せることになったが、894年に遣唐使が廃止されてからも、中国との交流が途絶えたわけではない。むしろ、民間の海上交易は活性化している。

道長・頼通の治世と重なる「北宋時代」とは?

中国を再統一させた宋が建国されたのは、960年のこと。そこから金に滅ぼされるまでの1127年までを「北宋時代」と呼ぶ。

一方、国内に目を転じると、966年に生まれた藤原道長は、996年に左大臣にまで上り、政権を掌握。1017年に摂政と藤原氏長者を嫡男の頼通に譲っている。道長が1028年に没すると、頼通が1074年に亡くなるまで、長く権力を握り続けた。まさに、中国の北宋時代は、藤原摂関家の全盛期から院政前期までと重なることになる。

こんなエピソードがある。

平安中期における東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、三論宗と密教を学んだのち、商船に乗って983年に宋に渡った。

三国伝来の釈迦像などを持ち帰ったことで知られるが、滞在時には、北宋2代皇帝の太宗に謁見する機会まで得ている。

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