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道長も困惑した「一条天皇」暴走する"皇后への愛" 花山院の藤原忯子への寵愛も格別なものだった

東洋経済オンライン / 2024年6月9日 10時30分

当の定子も兄の不祥事の責任をとり、剃髪して出家。藤原道隆を祖とする中関白家は、没落の一途をたどっていた。そんななかでの定子の懐妊および出産は、周囲を大いに戸惑わせたようだ。

長徳3(997)年6月22日、一条天皇は、生後約7カ月の脩子内親王とともに、定子を職曹司(しきのぞうし)に移している。

職曹司とは、中宮に関する事務を扱う役所「中宮職」の一局だ。内裏の東側に隣接していることから、人目を忍んで通いやすいと、一条天皇が考えたのだろう。

だが、すでに定子は自ら出家した身であり、しかもその原因は兄・伊周の不祥事である。まさしく事件の真相究明が行われているときに、定子が宮中に呼び戻されたのだから、公卿たちの不満も大きかったようだ。

藤原実資は日記の『小右記』で「天下、甘心せず(天下は感心しなかった)」とし、宮中が歓迎ムードとは程遠かったことを記している。さらに「太(はなは)だ稀有なことなり(とても珍しいことである)」と言葉を重ねて、一条天皇の行為を批判している。

だが、一条天皇はそんなムードに屈することなく、定子を寵愛し続けた。これまでも皇妃が職曹司を利用するケースははあったが、滞在は短期間なものばかり。

それにもかかわらず、定子は3年にもわたってとどまっている。そればかりか、一条天皇との間に、2人目の子どもまで宿すことになった。それも男の子が生まれたのだから、宮中がさらにざわついたことは言うまでもない。

もちろん、実権を握る左大臣の道長が、この状況を静観するはずもない。長保元(999)年11月1日に娘の彰子を一条天皇に入内させた。さらに6日後の11月7日、彰子に女御宣旨が下されることとなる。

その日の日記に、道長は「彰子に女御宣旨が下った」と記しながら、右大将の藤原道綱や民部卿の藤原懐忠、太皇太后宮大夫の藤原実資など、慶賀を奏上した面々の名を書き連ねた。「なんども盃を交わした」とも書かれており、道長のご機嫌な様子が伝わってくる。

だが、注目すべきは何が書かれなかったか、である。まさに同じ日、定子が第2子で、第1皇子となる敦康親王を出産しているが、道長は一切触れていない。

さらにいえば、定子が2度目の出産を行うにあたって、竹三条宮に移ることになったときのことだ。道長はわざわざその日に宇治へと遊覧に赴いている。

この行動に実資は「行啓を妨害する行為だ」と道長を批判している。実際に、道長の不興を買うわけにはいかないと、多くの公卿が参内しなかったという。

定子へのこだわりに道長も困惑か

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