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専門家が「専門外」についても語る社会は健全か 「数値を出さなきゃ意味がない」が逃す利得

東洋経済オンライン / 2024年6月11日 13時0分

とはいえ、専門的トレーニングを受けていない人が専門知を役立てることは簡単なことではない。たとえば「上司がこうすれば何%の部下がどうなる」という専門知を得たとする。しかし、それは限定的で微々たる効果しか持たない可能性が高い。

また、現実として専門知は「上司は部下に対してこう接するべき」など極端な規範として単純化され、原典の論文が読まれることはほとんどない。SNSの140字すら読めない人に、10ページ以上の文章を読みこなせと言うのは酷であろう。

なおそれは、多少言葉は悪いかもしれないが、論文を読む程度の力がない人でもエビデンスに興味を持ち、「自分は簡単に騙されない」という態度を取るようになったとも言える。とりわけコロナ禍が契機となって、人々はより自分で考えようとしている。その変化は無視してはいけないし、そのエネルギーを良い方向にむけられるよう専門家も助力すべきであろう。

専門家はエビデンスの自販機なのか

以上を踏まえたうえで、うなぎ屋問題に戻ろう。専門家は専門のことしか語るべきでないのか。結論を述べると、私はそうではないと考えている。専門家が果たすべき役割は、自身が研究する(狭い)領域の中で、一般の人たちにとって役立つ知識を、数値やエビデンスをもって裏付けること「だけ」ではないはずだ。

そう言える理由はいくつかある。まず、「特定の専門家による専門知の伝達」という流れのみを支持してしまうと、ますます専門の狭隘化が進むからだ。風呂に水をためる専門家とか、「どこに存在するかわからないけど、それには詳しいだろう人」しか頼るべきでないという流れは、きわめて危なっかしい。

研究者の世界は、そんな超特殊な専門性を形成するようには本来できていない。反面、それがウケることを察知して、メディアに向けて専門性を「詐称」する人も生まれるだろう。なお、私は別にZ世代の専門家ではないと、この場を借りて断っておく。

また、専門知が求められる社会課題は往々にして複合領域であり、単一の専門知だけで解決不可能である、ということにも注意すべきだ。風呂に水をためる問題を本気で考えるなら、誰に問うべきか。災害の専門家か。災害の専門家とは、どこで何をしている人々か。

私は、土木工学などを思い浮かべた。実際、土木工学者の方が防災を研究しているのを知っていたからだ。という話を建築士の方にしたところ、風呂の話なら土木って感じではないですね、建築学のほうが近いのでは?と意見をもらった。「ちなみに水をためると波を起こして振動を吸収できるので、私は意味あると思いますよ」とも仰っていた。

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