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自由競争できる社会=公平と思う日本が陥る悲劇 競争しなくても目的を達成する手段はある!

東洋経済オンライン / 2024年6月23日 14時0分

だが、目的を達成するには、競争とは別に<協力>という方法もあることを、私たちは知っている。

協力の場では、自分の長所を活かし、他者と弱点を補いあう。考えるのは、強みの活かしかた。他者が競争の相手であれば、私たちは、苦手なことも含めて、すべてを自分で処理しないといけない。だって周りは敵なのだから。こんなに非効率的なことはない。

ギャレット・ハーディンは、誰もが自由にアクセスできる放牧地では、一人ひとりが競って牧草を消費する結果、資源が枯渇してしまう、と論じた。「共有地の悲劇」である。

共有は「ただ乗り」を生む、「非効率だ」と言わんばかりだ。でも、私には、話しあい、協力しあわないから、そんな<誤った競争>が起きるのだ、と感じられる。

Japan as No.1と呼ばれた時代、日本企業は、組織内の協力関係を重視して、国際競争を勝ちぬいてきた。バブル後の不況を経て、協力は日本企業の弱点だといわれるようになった。だが、アメリカ型の競争モデルへの転換後、日本経済は長期停滞の深みにはまっていった。

協力しなければ目的が達成されないこともある。

高い山に登るとき、私たちは、登山パーティーを作る。チームでは役割を分担し、共に苦楽を分かちあいながらゴールをめざす。もし、到達タイムを競いあい、あゆみの遅いメンバーが置き去りにされてしまえば、結局は、全員が登頂に失敗してしまうことだろう。

そう。私たちが目的を達成しようとするとき、競争だけがその手段なのではない。では、なぜ、競争がこれほどまでに私たちを縛りつけるのか。

現代社会では、競争は必ず勝者と敗者を生み、勝者は名声と富を手にする。恵まれた地位を手にした人たちは、当然のことながら、支配的な地位の維持に必死になる。

彼らが勝ち続けるために必要なものは? 答えは簡単、競争だ。彼らは競争に向いているから勝者になった。いったん富や名声を手にすれば、さらに有利に競争を展開できる。

自由競争という言葉がある。自由に競争できる社会は公平な社会だという。

だが、本当にそうだろうか。

人間が自由である前提には「相互承認」がある。互いの価値を認めあわない社会では、価値を認められない人の人格が否定され、当事者は不自由さや生きづらさを感じる。一方だけが生きづらいのは、どう考えても不公平な社会だ。

互いの価値を認めあう、人間の自由を重んじる社会は、自由競争の社会と矛盾する。認めあいの社会では、不利な競争を強いられる人たちの価値もまた、尊重される。つまり、強い立場にある人たちの自由が制限され、好き勝手な振る舞いに歯止めがかけられる。

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