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自由競争できる社会=公平と思う日本が陥る悲劇 競争しなくても目的を達成する手段はある!

東洋経済オンライン / 2024年6月23日 14時0分

強いものが勝つことが宿命づけられる競争――こんな競争を公平な競争と呼ぶのはまちがっている。政治学者ホブハウスは「共同社会が自由な人間の真の主人なのだ」といった。協力を競争と対峙させ、前者を下に見る社会は、不公平と支配を再生産する社会でしかない。

競争を中心とする「経済」と協力を中心とする「財政」

人間の歴史を振りかえろう。生活の場、コミュニティの中心にあったのは協力だった。田植えや稲刈り、屋根の張りかえはもちろん、自警、消防、寺子屋、山林の管理、ときには介護でさえ共同体的な関係のなかで提供されてきた。

近代と呼ばれる時代になり、人間の移動がふつうになると、コミュニティはバラバラになる。それに代わって、私たちが作りだしたのが、「財政」という新しい協力のシステムだ。

消防や警察に私たちは税をはらう。子どものときには、育児や保育、義務教育といったサービスを受け、社会人になれば税を払うほうに回る。歳をとって働けなくなると、税の負担が軽くなり、年金や医療、介護をもらう。こうした社会全体の協力システムが財政である。

私たちの社会は、<競争を中心とする経済>と<協力を中心とする財政>とでできている。

ところが、現実の社会がそうであるにもかかわらず、受験勉強という名の、富裕層に有利な競争が子どもたちの学びの真ん中に置かれる。大学では大企業や証券会社による寄付講座が次々と増え、競争に加わり、勝ち抜くための方法が学生たちに叩きこまれる。

競争に比べ、協力することの意味や価値を学ぶ機会は限られている。だがそれでは、子どもたちは、人間社会の現実の半分しか知らずに大人になってしまう。

共通の目標を達成する学びの方法はいくらでもある

オーリックという教育学者が面白い提案をしている。こんな子ども向けのバレーボールはどうだろう、という提案だ。

サーブされたボールをレシーブすると、レシーブしたプレーヤーは急いで相手コートに移動する。次に戻ってきたボールをレシーブしたプレーヤーもまた、相手のコートに移動する。こうして両陣営のメンバーがそっくり入れ替わったとき、両チームが勝利者となれる。

競いあうのではなく、協力しあうことで共通の目的に到達する。むろん、私たちは各人が練習にはげみ、サーブやスパイクのレベルをあげていくことができる。努力はスポーツの難易度をあげ、より困難な状況に仲間と協力して立ち向かう力を育む。

スポーツはもちろん、芸術、地域活動、ボランティア、主権者教育など、共通の目標を達成するための学びの方法はいくらでもある。これらをもっと教育に活かしてはどうだろう。

きれいごとを言いたいのではない。人口が減り、高齢化も進み、かつてのような経済成長が難しくなる21世紀は、コミュニティへの依存が強まり、人間が連帯して困難に立ち向かう<温かくて厳しい時代>になる。協力という<人間のもうひとつの本質>への気づきを与える教育こそが、未来を豊かにする原動力となるのだ。

井手 英策:慶應義塾大学経済学部教授

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