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安易な国粋主義を戒めた「日本主義」哲学者の気概 九鬼周造の生き方に見る「媚態」と「やせ我慢」

東洋経済オンライン / 2024年6月25日 10時30分

「いき」とは、自己と異性、広くは他者一般との関係のあり方です。九鬼が言うには、それは「媚態」「諦め」「意気地」の3つの契機から成り立ちます。「媚態」は、相手と一体になりたいと思って媚びを売ること。それによって相手を引き付け、相手との距離を縮めることです。他方、「諦め」は、逆に、どうしても相手と一体にはなれないということ、どこまでいっても自分は自分で人は人ということを深く自覚すること。「意気地」は、いわば「俺は俺だ」と意地を張って相手をはね付けることです。「媚態」によって相手との距離を縮めつつ、「諦め」と「意気地」によって、逆に相手との距離を保ち、個としてあり続けようとするわけです。

古川:先ほど見たように、九鬼は一方では、西洋の優れた思想を積極的に学んで受け入れるべきだと言い、しかし他方では、日本には他の文化には翻訳できない日本独自の文化・伝統があり、それを大事にすべきだと言います。これはまさに「いき」なあり方を言っているわけです。

九鬼自身、8年もヨーロッパに留学して、ドイツ語やフランス語はもちろん、ギリシア語、ラテン語も完璧にできました。九鬼というと、とかくハイデガーの影響など、現代哲学との関係が取り沙汰されますが、実は彼が最も重視したのは、古代・中世以来の西洋哲学の伝統であって、その思考様式や学術的な作法に徹底的に従っています。つまり、彼ほど「西洋」というものに自己を同一化しようとした哲学者はいないと言ってもいい。

ところが、その彼が、他方で「いき」は日本独自の美意識であり、西洋の言語には絶対に翻訳できないと言う。これは要するに、意地を張っているわけですよ。

「いい気」に見せかけて「いき」を説く

佐藤:近代の日本は、西洋に「媚態」を示さなければ生き残れないという大前提から出発しました。なに、事情は今も変わりません。西洋に媚びることを「文明開化」ではなく、「グローバル化」と呼ぶようになっただけの話です。

とはいえ、媚びる一方ではアイデンティティが解体されてしまう。九鬼周造の母ではありませんが、正気を保てず、精神を病んでしまうかもしれない。だとしても、媚びずにやってゆくのは不可能。

媚びてなお、アイデンティティを維持するにはどうすればいいのか。このジレンマに立ち向かう方法論として、九鬼は「いき」を構想したのだと思います。これは安易な国粋主義とは対極に位置するもの。そちらは、「いき」ならぬ「いい気(=自己陶酔)」というやつですよ。

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