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「都市と山村」を行き来する「土着の思想」の実践 競争社会的生き方とは別の生き方を育む「苗代」

東洋経済オンライン / 2024年6月25日 10時0分

真兵くんが「土着」という言葉に込めた思いは、私たちのそれとは少し違う。私たちにとっての「土着」の思想とは、日本封建制が強いてきた下層労働者や農民の怨念に根を張った思想だったが、真兵くんの「土着」にはそのようなルサンチマンはない。

そして「土着」の思想が照準している敵対者が少し違う。真兵くんの言う土着の対極にあるのは、私たちの時代における小児病的な左翼思想(もはや懐かしい紋切り型口調)ではなく、金銭合理主義的な、競争社会である。

私たちにとって、「土着」の思想は、自らの思考を鍛え直す指標のようなものだったが、真兵くんにとっては、「土着」とは金銭合理主義が支配的な資本主義的生き方とは別の生き方を育む苗代なのである。

真兵くんがこうした考え方を組み上げていった背景には、おそらくは文化人類学者たちが観察してきたもうひとつの社会、交換経済とは異なるもうひとつの経済、異なる原理の発見というものがあったはずだ。マルセル・モースや、クロード・レヴィ=ストロースが解読した部族社会の原理は、真兵くんたちの「彼岸の図書館」のような実践に、根拠を与えている。

私たちの時代にも、すでに上記の文化人類学者の著作にアプローチすることはできたが、当時の私にとっては、それは難し過ぎて、現実の生活のなかに、どのように実装し、実践すればよいのかよくわからなかった。

私は、もっと別の書物から、自分なりの「土着」の思想を理解しようとしていたように思う。それはたとえば、画家のセザンヌが、フランスの詩人であり、美術批評家でもあるジョワシャン・ガスケに語ったこんな言葉である。

わたしはときどき散歩に出たり、市場へじゃがいもを売りにいく小作人の二輪馬車の後からついて行ったことがある。彼は、サント・ヴィクトワールを一度も見たことがなかった。彼らは、あっちこっち、道に沿って何が植わっているか、また、明日はどんな天気か、またサント・ヴィクトワールに冠がかかっているかどうか、などは知っている。犬猫のように、彼らは自分たちの必要にだけ応じてかぎつける。(ジョワシャン・ガスケ著、与謝野文子翻訳、高田博厚監修『セザンヌ』求龍堂)

ある種の黄色を前にして、あの人たちは自発的に、そろそろ始めなければならない刈り入れの仕草を感じとるのだ。(同上)

言葉を信じない地縁共同体への反発

私にとって、「土着」の思想とは、言葉の対極にある思想であり、生き延びるための知恵でもある。そうした考え方に私が共感できたのは、私が大田区の場末の工場で生まれて育ったことと関係している。私は、工場の職工さんたちから「お前は親父の後を継ぐんだ。手に職をつけろ。大学なんて行くとバカになる」と言われながら育った。

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