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「全部嫌になった」角田光代、34年目の働き方改革 仕事スタイル、映像化…小説の未来をどう描く

東洋経済オンライン / 2024年6月27日 9時0分

読み手が「つまらない」「クソみたいな本だ」と言うのも、自由だと思う。せっかく書いた私の本を「クソ」と言われたらそれは傷つきますけど、「クソじゃないよ」と私が訂正して回ることはできない。そこに関してはしょうがないというか。

映像化についても、例えば映画と小説って、まったく別物だと思っています。原作ありきで映画を見た人、あるいは映画を先に見て原作を読んだ人が「がっかりした」みたいな感想を漏らすことがよくありますが、たぶんその観念が、私には欠けているんだと思います。

書いているときにまったく絵が浮かばない

――『八日目の蟬』の映画版を見た角田さんが号泣されていたというエピソードを聞きました。書いたのは角田さんじゃないか、展開もすべて把握しているじゃないか(笑)と思いました。

作家によって、書いているときに絵が浮かんでいる人と、そうでない人がいるんです。前者の人は、主人公は女優さんだとこの人、みたいに、ぱっと名前が出てきたりする。でも私は真逆で、書いているときにまったく絵が浮かばないタイプなんです。

なので映像として見たときに、本当にびっくりするというか、「生きてる!」と感動してしまいます。主人公を誰が演じていても「ぴったりだ!」と思っちゃう(笑)。

『八日目の蟬』でいうと、冒頭、主人公は赤ちゃんを抱いて逃げています。映像で見ると初めて、赤ちゃんに重さがあることを感じる。それを抱いて、自分の体を駅まで運んで、逃げているところを見ると、もうわーっと泣けてきちゃって。こんなに大変なことなんだなって。

でももちろん、私と違う人もいて、映像化するならキャスティングなどまでしっかり関わるという人もいる。どちらがいいという話ではないです。

――源氏物語もまた、現代訳や漫画化、映像化などで、何度も形を変えて世に出されてきた作品の1つです。源氏が読み継がれてきた理由はどこにあるのでしょうか。

源氏物語の訳を通して私なりに結論付けたのは、「源氏物語が千年読み継がれたのは、紫式部の力による結果ではない」ということです。

本人は千年読み継がれるものを書こうと思っていなかっただろうし、千年という時間の感覚があったかすらわからない。ただ書いた。読み継いできたのはやっぱり読み手です。だから読み手によって、時代によって、解釈も違う。

そこは書き手がコントロールできるものではないし、書いたものは手放すしかないんだなと実感しました。

「フィクションの役割」とは

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