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定子の面子崩す「道長の策略」まさかの人物の憤慨 道長と近しい人も、数々の行いに苦言を呈した

東洋経済オンライン / 2024年6月30日 12時30分

定子に仕えた清少納言ゆかりの泉涌寺(写真: takaji / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第25回は、なりふり構わず行動を起こす道長に苦言を呈したある人物のエピソードを紹介する。

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病を理由に3度も辞表を提出した道長

激務によって疲労困憊し、腰痛もひどくて、ほとほと仕事が嫌になってしまった……。

【写真】権力者の道長にも苦言を呈した、藤原実資ゆかりの清水寺

そんな現代のビジネスパーソンでもよくありそうな悩みを、藤原道長も抱えていたようだ。

「道長が急病に悩まされている」と囁かれるようになり、藤原行成は藤原為任とともに、確かめに行っている。すると、民部権大輔である源成信と会い、「腰病に苦しめられています。邪気の行ったものでしょう」と聞かされることになる。

挙句には「出家しようと思う」と道長が言い出したのだから、ただごとではない。藤原行成の記した日記『権記』では、長徳4(998)年3月12日の出来事として、次のように記されている。

「左大臣、重ねて民部権大輔成信朝臣を遣わして上表した」

「重ねて」とあるように、苦悩した道長は、3度にわたって辞表を提出することになる。腰痛の悪化を理由にしているが、心身ともに疲れ切っていたのだろう。

道長に去られては困る一条天皇は、「朝廷の重臣で、天下を治めて、自分を補佐してくれるのは、道長のほかにはいない」と慰留。辞表を突き返し続けている。

心身が疲労困憊した理由の1つは、上司の暴走といったところだろうか。内裏を去った中宮・藤原定子のことを、 一条天皇はどうしても忘れられなかった。定子が自分の子どもを生むと7カ月後には、職曹司(しきのぞうし)に呼び寄せている。

定子が内裏を去ったのは、兄の伊周が不祥事をやらかしたために出家したからであって、常識的に考えると、一条天皇とは二度と会えない立場である。

それでも、一条天皇は自身の愛を貫いて、定子と会い続けた結果、第1子で第1皇女となる脩子内親王に続いて、第2子にして第1皇子となる敦康親王、さらに第3子にして第2皇女となる媄子内親王まで誕生することになる。

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