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北里柴三郎が「日本近代医学の父」と称される理由 「ドンネルの男」と呼ばれた世界的医学者の功績

東洋経済オンライン / 2024年7月4日 13時0分

新千円札の肖像になった、「日本近代医学の父」北里柴三郎の功績について解説する(写真:cassis/PIXTA)

「日本近代医学の父」と称され、細菌学者として世界に名を知られた北里柴三郎。今回、新千円札の肖像になったその功績について、彼の生涯を描いた『ドンネルの男』の著者で、医薬の歴史をテーマとする著作を数多く執筆している作家の山崎光夫氏が解説する。

「ドンネルの男」の異名

北里柴三郎はこのたび発行の新千円札の肖像に採用された。

「日本近代医学の父」北里柴三郎について語る山崎光夫氏

北里柴三郎(1853~1931)は日本近代医学の父である。世界に先がけて破傷風菌の純粋培養に成功し、その抗毒素も発見、血清療法の基礎を築いた。さらに、ペスト菌も発見、世界に知られた細菌学者である。

北里は東京大学医学部の学生時代に著した演説会用原稿『医道論』の中で、「医者の道とは病気を未然に防ぐ事」と主張し、「予防衛生・国利民福」を生涯の目標として細菌学の研究に邁進した。この初心を北里は生涯をかけて貫いた。「終始一貫(しゅうしいっかん)」は北里の座右銘である。まさに、終始一貫して、国の衛生事業に生涯を捧げたのである。

指導者となった北里が門人に放つドンネル(ドイツ語で雷の意味)は有名だった。失敗や怠慢などに容赦のない雷が落ち、その大声での怒鳴り声は研究所内に響き渡った。そこには、悪気や私心はなく、一喝の後は、晴天が待っていた。腹蔵なく雷を落とすことでストレスを発散させていた可能性があり、北里の健康術の基本はここにあったのかもしれない。

北里は嘉永5年12月20日、熊本県小国町に生まれた。阿蘇山や久住山(くじゅうさん)、涌蓋山(わいたさん)など山々に囲まれた山峡の小さな村だった。総庄屋の父、惟信(これのぶ)、母、貞(てい)の長男(4男5女)として誕生した。

勉学の場として選んだ熊本医学校でオランダの医師、マンスフェルトに師事するうち、医学研究を終生の目標に定めた。

「ぜひ東京で学び、そこで満足することなく西洋に雄飛せよ」というマンスフェルトの激励の言葉に発奮して上京。牛乳配達をして学費と生活費を稼ぎ出しながら、明治16(1883)年に東京大学医学部を卒業した。

そして、細菌学の研究と実践応用が可能な内務省衛生局に就職した。ここで細菌の調査研究をするうち、その突出した研究成果が認められドイツ留学の命を受けた。

官命に反抗しコッホの下で研究

留学先は結核菌を発見して世界的な名声を博していたコッホの研究室だった。以後、コッホから指導を受けつつ、細菌学の研究に明け暮れた。その態度は下宿と研究室までの道のりしか知らなかったといわれるほど研究に没頭する。

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