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北里柴三郎が「日本近代医学の父」と称される理由 「ドンネルの男」と呼ばれた世界的医学者の功績

東洋経済オンライン / 2024年7月4日 13時0分

明治21(1888)年、石黒忠悳(いしぐろただのり)軍医監がベルリンを訪れた際、「君は3年の留学期間のうち2年目に入っている。ついては、ミュンヘン大学のペッテンコーヘル教授の下で衛生学を学んでいる中濱東一郎(なかはまとういちろう)と交代し、君はミュンヘン大学で学べ」と命じた。この官命は国家命令であり絶対であり北里の危機だった。

この官命に対し北里は、「細菌学の修得には時間が必要です。この時期に交代しては、中途半端に終わり、結局、中浜も困ると思います」と交代に真っ向から反対した。“肥後もっこす”の魂に火がつき、ドンネルを落とした瞬間だったといえよう。

北里の反抗に石黒は激怒した。だが、結果的には、北里はコッホの研究所に残り、研究を継続できた。奇跡が起こったとしか考えられないが、これには石黒に課せられた国からの命題があり、それを遂行するにはコッホの指導を受ける必要があった。

北里とコッホの師弟関係は強固であり、北里をミュンヘン大学に移動させればコッホの怒りは目に見えている。コッホの心証を害しては、石黒自身に課せられた命題は果たせなくなる。かくして石黒は官命を撤回した。北里の細菌学に懸ける情熱と志は官命を覆させる迫力があったとしか言いようがない。

北里は明治25(1892)年5月に帰国した。コッホの下、約6年半に及ぶ留学中にあげた画期的な成果に対し、英国やアメリカから、「うちの研究室に来てください」「あなたの研究所を作る」「望みの報酬を提供する」といった破格の誘いが多数寄せられた。しかし、北里は国費で留学させてもらった恩に報いる気持ちが強く、全て断って帰国した。

ところが、北里に働く場所がなかった。これは北里が留学中に起こした脚気の原因にまつわる東大医学部派との論争に起因していた。東大派は脚気の原因に、脚気菌の存在を主張したのに対し、北里は、自分で行った実験結果から、脚気菌説を真っ向から否定した。

脚気菌説を唱える学者は、その昔、北里が指導を受けた細菌学者だったので、北里は恩師への礼儀を知らない、と糾弾された。一方、北里は学問に私情ははさむべきではないと科学性を前面に押し出し、これに反論した。

後年、北里の主張は、ビタミンB1の欠乏が原因と判明したことにより、結果的に、北里の正当性が確認された。

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こうした派閥的なしがらみもあり、世界的な実績をあげて帰国しながら、北里は仕事もなく空虚な日々を送っていた。

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