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「夫の前妻の子ども」が紫式部に"歌を贈った"真意 夫の宣孝亡き後、紫式部に言い寄った男性も

東洋経済オンライン / 2024年7月6日 11時30分

紫式部ともゆかりがある京都の上賀茂神社(写真: kazukiatuko / PIXTA)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は夫が亡くなった直後の紫式部のエピソードを紹介します。

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喧嘩が絶えない夫が亡くなり悲しみに暮れる

長保3(1001)年4月、紫式部の夫・藤原宣孝は、病でこの世を去りました。紫式部のもとには、宣孝との実子・賢子が残されました。

【写真】宣孝の前妻の子どもが詠んだ歌に登場する鴛鴦。

生前はいがみ合うこともあった紫式部と宣孝ですが、夫が亡くなり、紫式部は深い悲しみを抱えます。このとき紫式部は「見し人の煙となりし夕べより名ぞむつましき塩釜の浦」と、歌を詠んでいます。「夫が葬られて煙となった夕べから、塩釜の浦という名さえ懐かしく思われる」という意味です。

塩釜(塩竈)とは、現在の宮城県の地名。この歌の詞書には「世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所々を書いたる絵を見て」とあります。夫・宣孝を亡くして、無常を嘆いている頃に、紫式部は陸奥の名所を描いた絵(屏風絵か)を見ていたのでしょう。

塩釜の浦では、製塩が行われていたので、塩を焼く煙が立ち昇っている絵だったのかもしれません。実際に宣孝と紫式部が塩釜を訪れたことはなかったと思われます。それでも、立ち昇る煙を見ただけで、火葬の煙を連想し、悲しみにふける。紫式部の亡き夫への想いが伝わってくるような一首です。

宣孝には前妻がいて、子どももいました。その前妻の子どもから紫式部のもとに歌が贈られてくることもありました。

紫式部が詠んだ歌の詞書には「亡くなりし人の娘の親の手書きつけたりけるものを見て、言ひたりし」とあります。

この亡くなりし人(宣孝)の娘というのは、紫式部の子・賢子のことではありません。賢子は999年に生まれたと考えられています。宣孝が亡くなった年(1001年)は、まだ幼児。歌を詠めるはずがないため、前妻の娘のことでしょう。

前妻の娘は宣孝が生前に書いたもの(筆跡)を見て、そのときの想いを次のような歌に詠んだのでした。

「夕霧にみ島隠れし鴛鴦(をし)の子の跡を見る見るまどはるるかな」

鴛鴦(をし)というのは、おし鳥(カモ科の水鳥)のことです。

夕霧が立ち込めるなか、背を向けて島陰に消えていく、おし鳥。そのおし鳥の子は、跡を追うものの、夕霧のため親鳥を見失ってしまう。亡き父を慕う娘の想いや、心細さというものがよく表現されています。

前妻の娘が紫式部に歌を贈った理由

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