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紫式部にベタ惚れ「藤原宣孝」結婚して冷めた情熱 夫はモテモテ、紫式部は苦悩を抱くように…

東洋経済オンライン / 2024年7月7日 12時0分

思い人から冷たくされれば、普通はそこで諦めてしまってもおかしくはないが、モテる人は「自分の存在を印象づけられた」とむしろ、手ごたえを感じるものらしい。

そこからも和歌で交流を深めていった宣孝。式部が越前を離れて京に帰ってくれば会いに行き、結婚を十分に意識させてから「隔てのない仲になりたい」と訴えている。

宣孝はそうして式部にアプローチをしながら、近江守の娘にも接近していた。その所業は式部の耳にも入っており、「いっそ、あちこちの女に声をかけてはいかが?」と和歌で皮肉を放つこともあった。

だが、「ほかの女性にも声をかけている」と知ってもなお、式部にとっては宣孝が、いつしか特別な存在になっていたらしい。結局は、求愛を受け入れて、2人は結婚に至っている。

いったい、式部は宣孝のどんなところに惹かれたのだろうか。

宣孝は、御嶽詣においても、空気を読まずに一人だけ派手な格好で出かけていき、「まさか御嶽様が『粗末な服装で詣でよ』とは言わないだろう」と言って、周囲を呆れさせるような男だ。

手紙で「血の涙」を演出したように、相手の意表を突くような言動が多い。踊りも得意だったから、場を明るくするようなムードメーカーだったのだろう。

どちらかというと、引っ込み思案な式部とは、だいぶ違うタイプである。それだけに、一緒にいれば「自分もまだ知らない自分に出会えるかも」と考えたのかもしれない。

だが、恋愛はそれでよくても、結婚となると、価値観のギャップが、深刻なすれ違いを生みやすくなる。

式部を待ち受けていた宣孝との結婚生活は、あまり幸せなものではなかったようだ。

子どもをもうけるも悲しい結婚生活

2人が結婚した時期は、長徳4(998)年の冬頃とされている。その翌年の長徳5(999)年には一女として、藤原賢子が生まれるなど、幸せの絶頂にいたかにもみえるが、宣孝の足は早くも遠のいていってしまったらしい。

このまま放置するのはまずいと、フォローしようとしたのだろうか。7月には、式部のもとに宣孝から、こんな歌が届けられている。

「うちしのび 嘆きあかせば しののめの ほがらかにだに 夢を見ぬかな」

(あなたを想い、ため息をついているうちに夜を明かしたので、夜明けになつかしいあなたを夢に見ることもできなかった)

これだけ読むと、宣孝には式部への思いがまだありそうだが、式部からすれば、もう何度も肩透かしを食らったのか、顔を出せていないことへの言い訳としか思えなかったようだ。こんな返歌を行っている。

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