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金日成死去から30年・韓国人が流した涙の意味は 南北分断70年超、統一意識も薄れつつあるが…

東洋経済オンライン / 2024年7月13日 9時0分

北朝鮮・平壌の万寿台にある金日成氏(左)と金正日氏の銅像(写真・福田恵介、2013年撮影)

北朝鮮の金日成主席が死去して30年になる。そんなにも時間が経ったのかという思いとともに、今も忘れられない当時の光景がよみがえる。

1994年7月9日。北朝鮮の国営メディアが特別放送で金日成氏の死去を報じると、ソウルの街で涙を流す人がいた。泣き崩れる人もいた。目に焼き付いているのは、そんな場面だ。

韓国の人々が「統一」に抱く思いは時の流れとともに多様化してきた。変わったところもあれば、変わらない思いもあるだろう。対話はおろか、接点さえも見つけにくい現在の南北関係を思うと、まさに隔世の感がある。

第1次核危機に飛び込む

1994年6月。私は韓国語の研修のため、乗客が数人しかいない飛行機に乗って、ソウルに向かった。客席がガラガラだったのは、北朝鮮の核開発をめぐって緊張が高まり、いわゆる「第1次朝鮮半島核危機」の真っただ中だったからだ。時間をもてあますかのような客室乗務員から「こんなときに大変ですね」とねぎらわれるほどだった。

その前年となる1993年に、北朝鮮はIAEA(国際原子力機関)の特別査察を拒否し、その後、NPT(核不拡散条約)からの脱退を表明した。

私が韓国入りする3カ月前に軍事境界線上の板門店であった南北の実務者協議で、北朝鮮側が「ここからソウルは遠くない。(ひとたびことが起これば)ソウルは火の海になるだろう」と発言した。

緊張は高まり、スーパーや百貨店には即席ラーメン、缶詰といった保存食を買い占める人たちが大挙して、売り場の棚には何もないという現象が起きていた。

そのような中、アメリカのカーター元大統領が訪朝し、金日成氏と会談。金日成氏から「核開発凍結」の言質を引き出し、一転、危機を回避した。私の韓国語研修が始まったのは、まさにその直後だった。

訪朝を終え、韓国に戻ったカーター氏は、金日成氏から当時の韓国大統領である金泳三氏へのメッセージを携えていた。それはほかでもなく、「いつ、どこでも、無条件で金大統領と早い時期に会いたい」という内容だった。

南北はついに1994年6月28日、平壌で翌7月25日から27日まで、南北分断史上初の金泳三氏と金日成氏による首脳会談を開くことで合意した。カーター氏が伝えたメッセージの内容が明らかになったとき、「それでも南北首脳会談など夢のまた夢」といった冷めた見方も少なくなかったが、この合意は韓国国内を震撼させた。

メディアは、南北ちりぢりになって暮らす離散家族の声や対話派、強硬派それぞれの主張を手厚く報じた。良くも悪くも「何かが変わるのでは」という手応えを、ほとんどの韓国の人々が感じているということが、ソウルでの生活を始めてまだわずかな時間しか経っていない私にもよくわかった。

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