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尋常でない「怨念」生み出した、御息所の深い煩悶 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵④

東洋経済オンライン / 2024年7月14日 17時0分

「袖(そで)濡(ぬ)るるこひぢとかつは知りながらおりたつ田子(たご)のみづからぞ憂(う)き
(袖が濡れる泥の田──涙に暮れる恋路だとは知りながら、深入りしていく我が身が情けないことです)

『山の井の水が浅いので(あなたのお心が浅いので)私の袖が濡れるばかり』というあの古歌の通りです」

と御息所はしたためた。

その手紙を受け取った光君は、大勢いる女君の中でも、なんと格別にうつくしい文字を書く人なのだろうと思い、まったく男と女というものはままならないと嘆息する。性格にも容姿にも、まったくいいところのない人などいるはずもなく、といってこの人こそ妻にと思い定められる人もいないのを苦しく思った。ずいぶん暗くなってしまったが、光君は筆をとる。

「袖だけが濡れるとおっしゃるのはどういうことでしょう。私への愛情がきっと深くはないのでしょう。

浅みにや人はおりたつわが方は身もそほつまで深きこひぢを
(あなたは浅いところに下り立っておいでなのでしょう。私は全身ずぶ濡れになるほど恋路に深く入りこんでいますのに)

直接お目にかかってご返歌できないほどの、並々ならぬ事情があるのです」

もういっさい思い悩むまいとするものの

葵の上の、物の怪による苦しみはますます激しくなった。御息所の生霊(いきりょう)だとか、御息所の亡くなった父大臣の御霊(みたま)だとか噂する者がいると耳にして、御息所はあれこれと考えてみる。あまりに思い悩むと、たましいは体を離れることがあるという。我が身の不運を嘆くことこそあっても、他人を悪く思うことなどないけれども、もしかしたらたましいがあのお方に取り憑いているのかもしれない。思い悩むことの多い年月だったけれど、今までこんなにも苦しんだことはなかった。それなのに、あのつまらない車争いで、あからさまにないがしろにされ、人並み以下に蔑まれたあの御禊(ごけい)の日からこの方、正気を失い空虚になった心のゆえか、少しでもうとうとすると夢を見る。夢では、葵の上とおぼしき人がうつくしく着飾っているところへ出向いていって、その人をつかんだり小突いたりしているうち、ふだんの自分とはまったく異なる荒々しい気持ちになって、乱暴に打ち据えたりしている。そんな夢を見ることが度重なっている。おそろしいことに、本当にたましいが体を抜け出していってしまったのか、虚(うつ)けたような状態になったことも幾度もあった。それほどのことではなくても、他人のこととなると世間はいい噂などはまず立てないものだから、これはどんなふうにも言い立てられる打ってつけの話題の種だろう。そう考えると、ますます自分のことが話題にされそうな気がしてくる。亡くなってから怨霊になるのは世間にはよくあることだが、それだって、他人(ひと)ごととして聞いてもおそろしく罪深いことに思える。まだ生きていて我が身のまま、そんな気味の悪い噂を立てられるなんて、いったいどんな情けない因果が自分にあるというのだろう。あの薄情な人のことなど、もういっさい思い悩むまい。御息所はそう思うのだが、そう思うこともまた、「思はじと思ふもものを思ふなり」──思うまいと思っているのがすでに思い悩んでいるということ──。

次の話を読む:7月21日14時配信予定

*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

角田 光代:小説家

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