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終活の「適齢期」は自分の基準で決めればいい 無理にやっても「鬱々とした」気分になるだけ

東洋経済オンライン / 2024年7月18日 17時30分

体裁や見栄より、少しでも暮らしやすく自分なりの快適を求めるなら、失敗は隠さずに家族やプロと相談しつつ、方法を見つけたいと思います。

きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、ここでごまかさないで周りの人たちも自分も信用できるシニアでありたいです。

そして、もしかして、一度できなくなったことがまたできるようになったとしたら、とてもうれしく誇らしく思えるのではないでしょうか。

「少数精鋭」の友人がいれば寂しくない

友人の数にこだわるのもやめました。

私の場合は、同級生、かつての職場の友、趣味友などがいますが、現在は実際に連絡を取り合って会う友人はごく少数です。

昔は、同じ絵の研究所出身である夫との共通の友も含めて、賑やかに過ごす時間も多かった。誰もが若かったし、みんな今より寂しがりだったような気がします。

年を取ると、あまりに賑やかなのは疲れる代わりに、ひとりでいてもそれなりにすることがあって、誰かと会わないと寂しい……という気持ちも減ったかな。

まあ、老夫婦なりの会話はあって、共通の友達もけっこういたから、

夫「ほら、あの、あいつ名前はなんだっけ。いつも映画の話、してさ」

私「えーっと、苗字に田がつかなかった?」

夫「田は多いよな……吉田? あっ吉野?」

私「田じゃないじゃん、で何の話だっけ?」

みたいな「?」だらけの会話をしょっちゅうやっています。

60代後半からは、友人の訃報もチラホラ。70からの歳月は、もっとそういう機会は増えるでしょうが、そんな寂しい体験も含めて友人の数にこだわるのはやめたいです。

会わなくても、会えなくなっても懐かしい友人たちは、かけがえのないもの。今は苗字がすぐ思い出せなくても、かつて楽しかったことがなくなるわけじゃないし、大切な友であることに変わりない。

まずは自分のこれまでの多くの友たちとも過ごしてきた歳月を否定しないで、今の自分と仲良くしていきたいです。

それと、最近になって〇〇活というのを、本当によく目にするようになりましたよね。

初期の就職活動を縮めた「就活」あたりは、いわゆる略語として「就活はじめた?」みたいな感じで学生間で普通に使われていた感じ。

それがだんだん増えていき、婚活、妊活、捨て活、推し活などは明らかに略語というより造語。そして終活という言葉も作られ、シニア系の雑誌や特集ではひんぱんに目にするようになり、もう何年か経ちます。

鬱っぽくなりそうだから「終活」はしない

私の感覚では「終と活は合わない!」から、やりたくない。

終わりに向かって活動していくなんて難しい、哲学的なことは私には無理です。私の場合は終活しすぎたら鬱っぽくなりそうだから、やめる。

身辺整理しておかないと遺される人に迷惑が? 生きている今、老親に鬱々とされる方がよっぽど迷惑じゃない?

私も実家じまい問題というか、これも造語の「負動産」に悩まされはしたけれど、片付けながら小さい頃のことを思い出したり「これは今の家に持って行きたい」という懐かしのお宝を見つけてうれしかったりで、しんどいだけではなかった。

何もかも予定通りにはいかないから「人生は面白い」。

終活も、自分がその気になって「ああ、これを済ませて清々しい」という境地になれるようだったら、そうすればいいんです。

70歳を過ぎたら、自分基準で「やめときます」でいいのです。

中山 庸子:エッセイスト、イラストレーター

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