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あまりに突然の「妻との別れ」…御子誕生後の急変 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・葵⑤

東洋経済オンライン / 2024年7月21日 17時0分

嘆(なげ)きわび空に乱るるわが魂(たま)を結びとどめよしたがひのつま
(嘆き苦しみ、体を抜け出して宙をさまよう私のたましいを、下前(したまえ)の褄(つま)を結んでつなぎ止めてください)

と言うその声も雰囲気も、葵の上と似ても似つかず、まったくの別人である。これはどうしたことかと、あれこれ思いめぐらせていた光君は、あっと叫びそうになる。その声はまさに御息所(みやすどころ)その人である。これまで、下々の人々がとかく噂するのを不快な思いで耳にして、口さがない者たちの戯言(ざれごと)だと無視してきたけれど、今、まさにまざまざと目の前に見ているではないか。世の中には確かにこうしたことが起きるものなのだと、光君は忌わしく思う。

「そうおっしゃいますが、どなたかわかりません。はっきり名乗りなさい」

と不承不承口にするが、光君の目には、葵の上はもうすっかり御息所としか見えず、ぞっとする。女房たちがすぐ近くにいるので、光君は気が気ではない。

声も少しおさまり、いくらか苦しみが和らいだのだろうかと、母宮が薬湯をそばに持ってきたとき、葵の上は周囲の人々に抱き起こされ、まもなく赤ん坊が生まれた。一同はこれ以上ないよろこびに湧いたが、憑坐(よりまし)に乗り移らせた物の怪たちは無事な出産を妬んで騒々しくわめきはじめるので、後産(あとざん)をみんなが心配した。言い尽くせないほどの願(がん)をたくさん立てたおかげか、何ごともなく後産もすんだ。比叡山(ひえいざん)の座主(ざす)や、だれそれという尊い僧侶たちは、得意顔で汗を拭いながら、ようやく退出していく。

多くの人の心を痛めつつ看病の日々が続いたその緊張も解けて、もうこうなったらだいじょうぶだろうとだれもが思っている。御修法(みずほう)などは、あらためてあたらしいものを加えてはじめるけれど、もの珍しい御子(みこ)の世話に嬉々としてかまけて、みながほっとしていた。桐壺院をはじめ、親王(みこ)たちも上達部(かんだちめ)たちも、ひとり残らず贈った産養(うぶやしない)(祝宴)の品々はじつに立派で、お祝いの夜ごとに見てみな大騒ぎをする。御子は男の子だったので、産養のあいだの儀式はいっそう豪華にはなやかに催された。

ますます平常心を失っていく

一方の御息所である。噂で流れてくる御子誕生の話が耳に入るにつけ、心穏やかではいられない。以前は葵の上は危篤だという噂だったのに、安産だったとは忌々しい、という思いがつい心をかすめる。御息所は自分が正気を失っていた時のことを思い返してみる。着物には、物の怪退散の祈禱で使われるはずの芥子(けし)の香が染みこんでいて、気味悪く思って髪を洗い着物を着替えたりしてみたが、芥子の香りは消えない。そんな自分を自分でも疎ましく感じるのだから、まして世間ではどんな噂をし、どんなふうに言い立てるのだろうと、だれにも言えず悩み苦しみ、ますます平常心を失っていくのである。

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