藤原道長「我が世の春」支えた露骨な"脱税ほう助" 改革を目指した菅原道真は失脚の憂き目に
東洋経済オンライン / 2024年7月23日 17時0分
・観察使を派遣し国司の業務を監視させる
・優秀な国司は複数の国を兼任させる
・国司は任期中に1、2度入京し、天皇に業務報告を行う
このような朝廷の努力にもかかわらず、国司の腐敗は改まりませんでした。国司は有力貴族が後ろ盾になっているので、簡単にはつぶすことができなかったのです。
国司の腐敗をなくそうとして、逆に悲劇の最期を遂げたのが、かの菅原道真です。
菅原道真は、貴族としては名門の出ではありませんでしたが、230年間でわずか65人しか合格者が出なかったという、当時の最高国家試験である文章得業生(もんじょうとくごうしょう)に合格するなど秀才ぶりを発揮し、讃岐守(現在の香川県知事にあたる)などの重要ポストに就いて、当時の宇多天皇の信頼を得ました。そして、昌泰2(899)年には右大臣、現在の首相のような地位にまで上り詰めます。
しかし、その直後に無実の罪を着せられ、昌泰4(901)年、大宰権師(大宰府の副指令長官)に左遷されてしまいました。その後、名誉を回復することなく、京都に帰ることもないまま、大宰府で死んでしまうのです。
菅原道真に濡れ衣を着せた藤原時平やその関係者が次々に不審な死を遂げたので、一時は「道真の祟り」と言われ、朝廷はパニックに陥ります。学問の神様として名高い「天満宮」は、菅原道真の霊を慰めるために建てられたものです。
菅原道真の失脚は、古代史の謎の1つにもなっています。菅原道真は貴族の中では決して名門ではなかったので、藤原氏など他の名門貴族に嫉妬されて失脚したというのが、もっとも一般的な見方です。もちろん、それも要因の1つでしょう。
ただ、当時、菅原道真は「首相クラス」です。しかも、宇多上皇という超強力な後ろ盾も持っていました。簡単に首を切ったり、左遷したりできるものではありません。ちょっと嫉妬されたくらいで、失脚してしまうことはないはずです。では、なぜこのようなことが起きたのかというと、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」に手を入れてしまったからです。
菅原道真は、「寛平(かんぴょう)の改革」と呼ばれている国制改革を指揮していました。寛平の改革では、「農民・役人・貴族の脱税スキーム」を止めるために、京都の有力貴族と悪徳国司、富裕農民との関係を絶ち切り、清廉な国司による適正な徴税を復活させようとしたのです。
この改革を切望していたのは、宇多上皇でした。宇多上皇は当時すでに天皇を退位して上皇となっていましたが、まだ国政に影響力を持っており、改革の実行責任者として菅原道真を指名したのです。
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