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「織田信長と武田信玄」明暗を分けた真逆の税政策 領主による「税の奪い合い」だった戦国時代

東洋経済オンライン / 2024年7月30日 15時0分

織田信長と武田信玄の対照的な税政策について解説します(写真:Josiah/PIXTA)

「大化の改新」「源平合戦」「明治維新」等々、歴史の大きなターニングポイントには、必ずと言っていいほど脱税問題が絡んでいる、と語るのは元国税調査官の大村大次郎氏。

大村氏は、「脱税」だけでなく領主たちによる税の奪い合い「奪税」が横行していた戦国時代の覇者・織田信長の力の源泉もやはり「税」だったと指摘します。

※本稿は、大村氏の著書『脱税の日本史』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

税の奪い合い「奪税」になっていた戦国時代

戦国時代には、幕府や朝廷への納税はほとんど機能していませんでした。「では誰も税を払わなくていいか」というと、そういうことではなく、各地の有力者や豪族が勝手に税を徴収していたのです。

戦国時代は脱税だけではなく、「奪税」の状態になっていたのです。

室町時代後半から戦国時代にかけての年貢は、複雑な仕組みとなっていました。当時、日本の農地の大部分は荘園となっていましたが、本来、荘園というのは荘園領主が持ち主でした。荘園領主というのは、自分の領地から遠く離れて住んでいることが多く、実際の管理は荘官や地頭に任されていました。そのうち、荘官や地頭の力が強くなり、彼らが実質的な領主になっていったのです。

そうなると、どういうことが起きるでしょうか?

本来の荘園領と、荘官や地頭が「二重」に税を取るような事態になるのです。「二重」とまではいかずとも、税の仕組みが複雑になり、農民は余計な税負担を強いられることが多々あったのです。つまり、中間搾取が増えていったのです。

室町幕府は、各地に守護を置いていました。守護は本来、中央政府から任命された一役人にすぎませんでした。ところが、中央政府が弱体化すると力をつけていき、実質的にその地域を治めるようになっていったのです。

それが守護大名と言われる者です。さらに、その守護大名の力が弱くなって、その地位を奪う戦国大名が出現してきました。

これも農民にとって負担が増える要因になりました。農民は荘官に年貢を払うだけでなく、守護にも「段銭(たんせん)」という形で税を取られるようになりました。段銭というのは、農地一段(一反)あたりに課せられる租税のことです。もともとは戦争時などに臨時的に徴収されたのが始まりですが、戦国時代には半ば常態的に取られている地域もありました。

また、新興勢力である「加地子(かじし)名主」にも、事実上の年貢を納めなくてはならなくなっていました。「加地子名主」は、もともとは農民だった者が力をつけて地主的な存在になった者のことです。このように、戦国時代では社会のシステムが崩壊し、力の強い者がどんどん収奪するようになっていたのです。

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