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千里中央、北大阪急行延伸で「地盤沈下」進むのか 終着駅から中間駅になったニュータウンの中心

東洋経済オンライン / 2024年7月31日 7時30分

印象的だったのは、千里中央駅の混雑が以前より落ち着いた点である。これは、千里中央駅から箕面方面に向かっていた路線バスの多くが、延伸に合わせた路線再編で箕面萱野駅を新たな接続駅としたためであろう。これまでは箕面市域の広範囲から千里中央駅に集まっていた利用者が、延伸区間を含む3駅に分散された形だ。

また、昼間時間帯には千里中央駅から箕面萱野駅方面への利用者も少なからず見受けられた。前述の大型商業施設などに向かう人々だと思われるが、鉄道ができたことによってこうした行き来も活発になっているようだ。

ところで、気になるのは千里中央の今後である。北急の延伸によって千里中央駅の利用者が減るというのもさることながら、周辺エリアの再開発計画が滞っているのも気がかりだ。

このエリアの発展は、1962年に千里ニュータウンのまちびらきが行なわれた頃に端を発する。大阪万博が閉幕した1970年9月には現在の千里中央駅が開業。2年後には大型複合施設「千里セルシー」もオープンし、すでに営業していた百貨店の千里阪急や旧・千里大丸プラザ(大丸ピーコック)とともに、居住人口が10万人を超えていた千里ニュータウンの中心地として、その存在感を増していった。

とくに、千里セルシーはスーパーや飲食店に加えて映画館やボウリング場、屋上遊園地やプールまであり、子どもから大人まで楽しめる施設だった。筆者も子どもの頃、週末になると両親に連れられて遊んだのを覚えている。

にぎやかだった「せんちゅう」

また、屋外に設けられていたステージは、若手歌手の登竜門としても知られていた。光GENJIをはじめ、モーニング娘。や矢井田瞳、AKB48など錚々たる面々がここでイベントを開催。「ここに立つことができると人気が出る」と言われ、若手にとっていつしか憧れの場所となった。

ちなみに、千里中央は歴史の舞台となったこともある。1973年、オイルショックをきっかけにトイレットペーパーの買い占め騒動が全国で起きたが、その発端は千里中央の大丸ピーコックだった。折から政府が紙の節約を呼び掛けていたところ、店の特売広告に書かれた文言が誤解を生み、買い占め騒動に発展。これが報道され、全国に波及したのだ。

話を戻そう。長らく千里中央の代表的施設として君臨した千里セルシーだが、建物の老朽化に加えて規制強化された耐震性能を満たしていないことから、2010年代後半に建て替え計画が持ち上がる。2018年の大阪府北部地震ではエレベーターが損傷するなどの被害を受け、テナントの撤退が加速。翌2019年に閉館し、最後まで残った店舗も2022年に撤退した。

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