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紫式部「恥さらしと言われた宮仕え」決断した背景 道長はどう考えていた?紫式部の彰子への思い

東洋経済オンライン / 2024年8月3日 12時30分

宮仕えは恥ずかしいことだと思いながらも、どこか違う世界を見てみたいという好奇心や、夫がいない寂しさを紛らわしたいとの気持ちもあったのかもしれません。寛弘2年(1005)頃のことでした。

紫式部の宮仕えの日々を知るうえで貴重な史料が、『紫式部日記』(以下『日記』)です。記述を見て、宮中での生活をのぞいてみましょう。

紫式部が出仕してから3年後の寛弘5年(1008)秋、中宮・彰子は懐妊していました。

彰子は、父・藤原道長の土御門殿(邸)に滞在。『日記』は、この土御門殿でのたたずまいの描写から始まります。

「秋の気配が立ちそめるにつれ、ここ土御門殿のたたずまいは、えも言われず趣を深めている」と。

鮮やかな空、色づく池の畔の木々、草むら。秋の気配漂う道長の邸は、鮮やかな色に染まってて、そう遠くないところから、絶え間なく読経の声が聞こえてきたそうです。道長が娘・彰子の安産を願い、僧侶たちに読経させていたのでした。

紫式部は出産間近の中宮・彰子の様子を「お付きの女房たちがとりとめのない雑談をするのをお聞きになりながら、出産間近で、お身体も大変に違いないのに、それをさりげなく隠しておられる」と書きとどめています。

そして、そんな中宮の様子を見て「つらい人生の癒やしには、求めてでも、このような方にこそお仕えするべきなのだと、私(式部)は日頃の思いとは変わって、すべてを忘れてしまう」と紫式部は感想を漏らすのです。

紫式部の宮仕えの日々は、気が重いこともあったでしょう。いや、ほとんどがそうだったかもしれません。

何しろ紫式部は、好奇心はあっても、引っ込み思案で内向的な性格。多くの女房たちに交じって、宮廷で働くことは、精神的にきつかったと思います。

紫式部の彰子に対する思い

そんな紫式部の清涼剤ともいえるのが、自身が仕える彰子の奥ゆかしい態度だというのです。これを主人への追従ととる向きもありますが、そのような追従をわざわざ紫式部が私的な日記に書き込む必要はないでしょう。

彰子は、長保元年(999)に入内。当時、彰子はわずか12歳でした。しかも、一条天皇には、すでに寵愛する中宮・定子がいたのです。

定子の父は、藤原道隆。道隆は、道長の兄でした。彰子の入内の直後、定子は一条天皇の第一皇子・敦康を産みます。翌年、彰子は中宮、定子は皇后となるのですが、天皇の愛情は定子に注がれていたと思われます。そして長保2年(1000)、定子は女子を出産しますが、直後に亡くなってしまいます。

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