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4回金メダルの国枝慎吾が「障害受容」に至るまで 車いすテニスの前に打ち込んだスポーツの存在

東洋経済オンライン / 2024年8月11日 17時0分

体が動かないようにガムテープでぐるぐる巻きにして、MRIを撮った。

「画像に白い影が見つかりました」。そう、医師に告げられた。

母が耳にした唯一の弱音

夜中に目覚めると、国枝は足を動かせなかった。

翌日、救急車で東大病院に搬送された。そして、その翌日、脊髄の腫瘍を取る緊急手術をした。

麻酔から目が覚めた。やはり、足はもう動かなかった。

国枝は手術をすれば、治ると信じていた。手術が終わったら、マウンテンバイクを買ってもらう約束もしていた。

母はどう説明するか、悩んだ。入院中、放射線や抗がん剤の治療が始まった。髪が抜け落ち始めた。

「つらい治療が終わったら、マラソン大会に出られるのかどうか。入院中、それが息子の一番の関心事でした」

いつまでも、隠し通せない。

ある日、息子がマラソン大会への意欲を口にしたとき、意を決して告げた。

「これからはずっと、車いすの生活なんだよ。だから野球もマラソンもできないんだよ」

それを聞いた息子の表情は覚えていない。ただ、どう返してきたかは、忘れない。

「窓から飛び降りられるなら飛び降りたい、って言いましたかね」

病室が何階だったのかは記憶にない。たしか、3階だった気がする。

「4年生の子がそんなことを言うのか、と思いましたね」

常に前向きで元気。反抗期もなかった。母が記憶する、息子の唯一の弱音だった。

俊敏なチェアワークの原点

2021年5月、母の珠乃から「飛び降りたい」発言を聞いた後、改めて国枝に、「発言」の記憶があるか、聞いてみた。

「全然、覚えてないんですよ。うーん、言われてみると、そんなこともあった気がしないでもない、かな。僕の封印された記憶がよみがえったところがあります」

こんな話もしてくれた。

「小学校6年までの僕は、夢の中ではずっと歩いていた。野球をしたり、駆けっこをしたり。それが中学校に入学したころから、車いすに座っている僕が出てくるようになった。そのころが、僕にとっての障害受容だったかもしれないですよね」

国枝は「障害受容」という心理学の専門用語で説明してくれた。

医学関連のサイトを検索すると、5つのプロセスが説明されていた。

障害を負った直後の「ショック期」、認めようとしない「否認期」、今までできていた生活ができなくなることを受け入れがたい「混乱期」、障害に屈せずに生きようと心がける「努力期」、そしてポジティブに捉えられるようになる「適応期」。

国枝の述懐を聞く限り、「適応期」まで到達するのが早かった。

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