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4回金メダルの国枝慎吾が「障害受容」に至るまで 車いすテニスの前に打ち込んだスポーツの存在

東洋経済オンライン / 2024年8月11日 17時0分

なぜなのか。打ち込むことがあった。バスケットボールだ。

入院中は大好きなテレビゲームの「マリオカート」に熱中し、若い医師に相手になってもらっていた。

退院して自宅に戻ると、体を動かしたい欲求がわき上がってきた。元々、野球少年。しかも、運動神経は抜群だ。選んだのがバスケットボールだった。

自宅が、最適な立地にあったのも、幸運だった。自宅前は道路の奥で、その先には車止めがあった。自動車が入ってこないから、自宅の敷地内から道路に向けてバスケットボールのリングを設置した。「放課後、どこかで遊ぶことができないので、自宅が学童保育のようになればと思っていました。少なくとも毎日、5、6人は集まってましたね」と珠乃はいう。母はおやつと飲み物を用意した。

「私にしたら、あれだけ外を駆け回っていた子がしょんぼりしているのを見るのはつらくて。前の笑顔を見たいな、というのがあったので。それを設置したときはすごく喜んでいました」

国枝は振り返る。

「むちゃくちゃ楽しかったですね。僕らは漫画『スラムダンク』の世代なんで、漫画のキャラクターの名前を叫びながら、シュートを打ってました」

車いすテニス界で随一といわれるチェアワークの原点が、ここにある。

「確かに、車いすテニスを始めたころ、驚くぐらい俊敏に動けたのは、友だちとのバスケで培ったもの。競技用ではなくて、日常の車いすでしたし、車いすバスケは健常者のバスケと違い、ドリブルをした後にボールをいったん保持して、またドリブルすることが認められているんですけど、当時の僕はそういうルールを知らなかったんで、ダブルドリブルはNGにしていました」

中学3年で知った「ユーイング肉腫」

元気で友だちと遊ぶ姿を見ながら、母は息子に告げていないことがあった。手術で取りのぞいた腫瘍は悪性のがん、「ユーイング肉腫」だった。

医師からはがんであったことを息子には告げないように言われた。医学書を探すと、「5年生存率」は30%と書かれた本を見つけた。

息子は5年以上、生きられない可能性がかなりある、ということだと理解した。

母は、そのデータを医師に確認することはなかった。

息子に明かさなかった理由がもう一つある。発症した年に、人気アナウンサーの逸見政孝さんが記者会見でがんであることを告白し、年末に亡くなっていた。

「テレビのニュースとかで見ていたんでしょうね。慎吾はがんには絶対になりたくないと言っていたんです。それもあって、すぐに言うのは控えました」

息子に告げたのは中学3年のときだった。「5年生存率」を特別意識していたわけではないという。

15歳ぐらいになったら、なぜ、歩けなくなったのか、本当の原因を息子も知りたくなるだろうと考えたからだ。

「自宅だったと思います。たぶん、ポロッとさりげなく言ったんだと思います。今日言うぞ、というのではなくて」

息子はゲームをしながら聞いていて、それに対する感想はなかったと記憶している。

国枝の、母からの「告知」についての記憶はあいまいだ。

「中学3年ぐらいだったか。車の中だったか……。がんだったと言われて、死ななくて良かった、生きていて良かったと思いました。毎日が楽しかったし。命があることへの感謝が、テニス、そして人生への向き合い方にもつながっています」

国枝 慎吾:元プロ車いすテニスプレーヤー

稲垣 康介:朝日新聞編集委員

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