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花山院を襲った「道長の甥たち」2人の異なる運命 呪詛疑われた伊周と、大宰府に向かった隆家

東洋経済オンライン / 2024年8月11日 10時0分

「世中のさがなもの(喧嘩っ早い荒くれ者)」

伊周の弟・隆家はそう評されるだけあって、かなりの武闘派だったらしい。藤原頼忠に無礼を働いたり、牛車で花山院の門に突進したりと、その手の逸話に事欠かない。

そして、極めつきが、兄の伊周とともに起こした「長徳の変」である。花山院に矢を射かけたとして、隆家も処分を受けて、出雲への左遷が決定。病気を理由に但馬にとどまったものの、伊周と同じく、京からは遠ざけられることとなった。

だが、この挫折によって、隆家は「さがなもの」から脱却したらしい。復帰後は、さまざまな行事に顔を出しながら、道長との関係性を地道に作っている。道長の日記『御堂関白記』、藤原行成の日記『権記』、藤原実資の日記『小右記』などに、その名がたびたび記載されている。 

例えば、寛弘元(1004)年1月4日、道長が息子の頼通のところを訪れると、近衛府(このえふ)の官人たちが宴会を開き、隆家もこれに参加。衣を脱いで官人たちをもてなすなどして、楽しませた。

その3日後には、邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出す白馬節会が行われて、隆家は叙位の宣命を読み上げる使者である叙位宣命使を務めた。さらにその翌日の8日には宮中に僧を招く「御斎会始め」にもしっかり参内している。

そして14日の「御斎会結願」には、道長に同行して大極殿に参ったようだ。道長が日記に次のように記している(『御堂関白記』)。

「直廬から大極殿に参った。権中納言と宰相中将が同行した」

「権中納言」は隆家のことである。

その剛腕ぶりからどちらかというと豪快なイメージがある道長だが、案外ジメジメしたところがあり、日記を読むと「公卿が行事にきちんと出席しているかどうか」を細かくチェックしていることがわかる。

かつて藤原実資は、3歳になった彰子の「着袴の儀」を欠席したことがあったが、その翌日には「道長が不快感を持っていた」と耳にする。実資は驚いて、すぐさま赴いて謝罪したという。

手痛い失脚によって成長した隆家は、そんな道長の細やかさも理解したうえで、積極的に行事に顔を出したのかもしれない。

『大鏡』には、行列の後方にいた隆家に同情して、道長が車に乗せた……という説話が紹介されている。少なくとも復帰後しばらくは、道長との関係は良好だったのではないだろうか。

眼病に苦しんで実資に相談した

兄・伊周の死後も、そんな隆家のスタンスは変わらず、長和元(1012)年9月20日には皇后御読経結願に参列。また10月27日には、大嘗会という宮中祭祀に向けての、天皇が川へ行幸して身を清める「大嘗会の御禊」にも参加している。

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