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「虎に翼」モデル"三淵嘉子"大胆すぎるスキー事件 アクティブな嘉子のあだ名は「ムッシュ」だった

東洋経済オンライン / 2024年8月14日 11時0分

モデルとなった三淵嘉子も、そんな一緒にいて楽しくなるようなタイプだったらしい。明治大学専門部女子部に入ると、4人の仲良しグループで、神田の駿河台下あたりを散策しては、みつ豆を食べたり、書店巡りをしたりと、学生生活を満喫していた。

授業の合間に友人と東京YWCAのプールでひと泳ぎしてから、濡れたままの髪で授業に出て、居眠りをしてしまったこともあったとか。その一方で、料理学校にまで通っていたというから、少しでも時間があれば、じっとしていられないタイプだったのだろう。

学生時代の逸話として語り草になっているのは、何といっても「乃木坂スキー事件」だ。

東京で雪が降ると、その珍しさにテンションが上がったのか、嘉子は自宅に立てかけてあったスキー板をおもむろに持ち出した。

そして雨ガッパに身を包んだかと思うと、自宅の近所だった乃木坂をスキー板で滑り出したのだという。

突如、現れた謎のスキーヤーに驚いた警官から注意されるが、どうやって止まったらいいのかがわからず、嘉子はそのまま坂の下まで……。追いついた警官に散々に怒られたことは言うまでもない。

そんなアクティブすぎる嘉子に、つけられたあだ名は「ムッシュ」。男まさりの言動と名字の「武藤」にちなんで、そう呼ばれていたという。

そうして存分に学生生活を楽しみながらも、嘉子が身を置いた女子部の環境は、決して生ぬるいものではなかった。

入学時には50人近くいたにもかかわらず、卒業時には20人あまりにまで減少。結婚による退学が多かったようだ。なかには、本人の意思に反して、親に縁談を押し付けられて、法律を学ぶことを断念したケースも少なくなかった。

女子部全体で100人あまりという状況について、嘉子は「専門学校というより塾と呼ぶのにふさわしいような小さな学校」と振り返りながら、学生たちの様子をこう表現している。

「生徒も女性解放の意気に燃える女闘志やら、私のように世間知らずの女学生等年齢も10歳代から40歳を超える年齢の女性までまことにバラエティーに富んでいた。ともかく普通の女子学校にはない厳しい、しかも大人の雰囲気があった」

本気で学ぶつもりがある人しか、勉強を続けられない環境だったといってよいだろう。

試験では男子学生にカンニングを迫られる

1935(昭和10)年3月、嘉子は20歳で明治大学専門部女子部を卒業すると、明治大学法学部へと編入する。

男子学生との共学となったが、互いに交流するような雰囲気ではなかったようだ。女子学生はつねに教室の前のほうで授業を受けて、授業外でも女子だけで行動していたという。

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