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「推しの子」ヒットが私たちの不満を象徴する訳 選択の可能性が狭まる、不自由な現代を物語る

東洋経済オンライン / 2024年8月14日 10時0分

しかも、平田篤胤はほぼ同時期に、幼い頃に天狗に連れ去られ、神仙界(仙人の住む世界)を訪れ、呪術を習得した寅吉という子どもからの聞き書きをまとめた『仙境異聞』という書物を出している。つまり、「転生もの」は、『勝五郎再生記聞』(生まれ変わりの話)と『仙境異聞』(異界探訪の話)のハイブリッドであるといえる。前世の記憶を持って生まれ変わった先が異界になるという寸法なのだ。

とりわけ「異世界転生」の場合、どちらかといえば、生まれ変わりというよりも「世界A」から「世界B」への移行の側面が強く、移行後は、前世の状態における不全感の回復がおおむね意図されている。主人公の無双化はその最たるものだ。このような特徴から、霊肉二元論の死生観をベースにした「貴種流離譚の焼き直し」という見方ができる。「不本意なガチャの想像的な救済」と言い換えられるかもしれない。

『推しの子』が満たす「覗き見願望」

もう一つ重要な視点は「覗き見願望」だ。「転生もの」は、以前の人格や記憶を維持しているという点を踏まえると、自己の意識を保ったまま他人の人生を体験=覗き見する感覚に根ざしているといえる。『【推しの子】』では、芸能界の裏側をアイドルの隠し子として転生した赤ん坊の側から目撃する「異世界ツーリズム」の様相を呈している。

そもそも、自分の意識を持ちながら他者の中に入り込むというアイデアは、ファンタジー映画『マルコヴィッチの穴』(監督:スパイク・ジョーンズ、1999)が先駆けである。本作は、売れない人形遣いの主人公が職を得て、オフィスで文書整理の仕事をすることになったが、オフィスで発見した壁の穴に入ってみたら、15分だけ実在する俳優ジョン・ マルコヴィッチの頭の中に入れるようになる、という異色中の異色設定の怪作であった。

ジャンルが「転生もの」ではないこともあり、物語はマルコヴィッチの奪い合いへと展開していくのだが、もともと「覗き見」的な欲望に後押しされている点が非常に重要である。

『【推しの子】』はアイドルの赤ん坊の内部に入り込む形になっているが、有名人の内部からはどんな光景が見えるのかというスパイカメラ的な視線の共通性で際立っている(『マルコヴィッチの穴』では、主人公がマルコヴィッチと意中の女性の間にできた赤ん坊に閉じ込められるオチがある。これもスパイカメラ的である)。

これは、ある種の自己そのものを世の中から消し去ることであり、「今の自分」を透明人間に変える行為に近い。「人間の関係はふつう、見る主体であり同時に見られる客体なのだが、自分たちは見られずに見るだけの絶対主体なのだと。非存在の、いわば純粋視線」――半生を「のぞき」に捧げた男「為五郎」のドキュメント『盗視者 為五郎 のぞき人生』(桑迫昭夫/朝倉喬司、幻冬舎アウトロー文庫)にある言葉だ。

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