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虎に翼モデル「三淵嘉子」が愕然とした"差別文言" 「女性弁護士誕生」と騒がれる事に違和感を抱く

東洋経済オンライン / 2024年8月21日 9時20分

すると、どうも内容的には問題がなかったらしい。野瀬から「絶対大丈夫」と励まされたことで、嘉子は気持ちを立て直す。翌日からまた受験に臨んでいる。

昭和13(1938)年11月1日、司法科試験の合格者がラジオでも報じられると、新聞各紙のメディアはこぞって記事に取り上げた。受験者数2986人のうち、合格者は242人で、そのうち3人は女性だった。

筆記試験では泣き崩れた日もあった嘉子だったが、蓋を開けてみれば、抜群の成績での合格だったというから、さすがである。

嘉子は試験対策として、半紙を縦二つ折りにし、左に問題を右に答えを対比させるという形式で、オリジナルのサブノートを作っていた。合格のために必要な要素が詰まった秀逸なサブノートだと、周囲も絶賛。勉強法1つとっても、自分の頭で考え抜くのが、なんとも嘉子らしい。

嘉子は、女性初の合格者の1人として、歴史に名を刻むことになった。

この年、つまり昭和13(1938)年に嘉子のほかに合格した女性は、中田正子と久米愛だった。

司法科の試験を女性も受けられるようになったのが昭和11(1936)年であり、19人の女性が受験するも合格者は0人。その翌年の昭和12(1937)年に、初めて女性で筆記試験に合格したのが、この中田正子である。

残念ながら、そのときは口述筆記で不合格となり、女性初の弁護士誕生とはならなかった。「女性だから落とされたのではないか」とも言われたが、昭和13年に、嘉子らとともについに合格し、リベンジを果たすことになった。

女性は裁判官にも検察官にもなれなかった

初めての女性弁護士が一気に3人も出た……というニュースにマスコミは飛びついた。「女性が司法科に合格した=女性弁護士の誕生」と騒がれたのは、当時はたとえ司法科試験に合格しても、裁判官や検察官になれるのは男性のみで、女性にはその道が閉ざされていたからである。

口述試験場にあった「裁判官募集」の紙に「裁判官になれるのは日本帝国の男子に限る」と書かれているのをみて、嘉子は人知れず、唇をかみしめていた。のちにこう振り返っている。

「なぜ日本帝国男子に限るのか。同じ試験を受けて、どうして女子ではダメなのかという悔しさが猛然とこみあげてきたことが忘れられません」

そんな嘉子にとっては、司法科の試験に突破した途端に「女性弁護士誕生」と騒がれることにも、違和感を抱かずにはいられなかったことだろう。

さらに嘉子は、女性弁護士の誕生に沸くマスコミからの取材に対して、まったく別の角度からも違和感を持っていた。それは、法律家を志した動機として記者から「か弱き女性の味方になろうとしたのですか」としきりに質問されることだった。

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