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男性遍歴多い「紫式部の娘」が最後に選んだ伴侶 母親とはまるで性格が真逆、長寿を全うした

東洋経済オンライン / 2024年9月29日 9時30分

式部が出仕した頃、まだ6歳前後だった幼い娘の賢子が、どのように過ごしていたのか。その足取りはよくわかっていない。ただ、『紫式部日記』が書かれたのは、賢子が10歳を超えた頃のこと。タイミング的にも、将来を見据えた母が、娘のために書いた可能性はありそうだ。

賢子が14~15歳頃に母の式部は他界(式部の没年については諸説あり)。長和6(1017)年、賢子は母の跡を継ぐように、彰子のもとに、女房として出仕する。式部の存命中から、賢子は彰子のもとに出入りしていた。彰子としても、よく知る式部の娘ならば、と考えたのだろう。

だが、実際に賢子が出仕すると、彰子は「さすが式部の娘!」と感心したり、「本当に式部の娘なの……?」と戸惑ったりと、両極端の感想を日々持ったのではないだろうか。

賢子は母の式部と同じく和歌の才を発揮しながら、その性格は引っ込み思案だった母とは異なり、明るく情熱的な女性だった。

貴公子たちの心をつかんだ賢子の才覚

のちに「大弐三位」として知られる、式部の娘・賢子は、ほとばしるパッションを隠すことなく、恋愛経験も豊富だった。

藤原公任の息子・権中納言の藤原定頼から、こんな歌が贈られたこともある。

「こぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむのちの 慰めぞなき」

(いつまで待っても来ない人を思って梅を眺めていました。花が散ったあとには慰めとするものがありません)

賢子を思う定頼の切ない思いが伝わってくる。だが、当人からすれば、とても素直には受け取れなかったようだ。賢子はこんな歌で返している。

「春ごとに 心をしむる 花の枝に たがなほざりの 袖かふれつる」

意味としては「春が来るたびに私が深く思う梅の枝に、どなたか気まぐれな袖を触れさせて、その移り香を移されたのでしょう」。

どうも定頼は浮気者だったらしい。「会わない原因はあなたにあるのに、よくそんなことが言えたものね」と、相手をたしなめているのだ。

そうかと思えば、賢子は、自分のもとから足が遠のいていた定頼に対して、こんな歌も菊の花とともに贈っている。

「つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花」

あなたは私に薄情なところがありますが、それでもあなた以外の誰に見せましょうか、この白菊の花を――。

そう言いながらも、賢子は、定頼の後任として蔵人頭になった源朝任(あさとう)とも恋愛関係になる。また、ある男性には、こんな歌を贈っている。

「恋しさの 憂きにまぎるる 物ならば またふたたびと 君を見ましや」

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