1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

男性遍歴多い「紫式部の娘」が最後に選んだ伴侶 母親とはまるで性格が真逆、長寿を全うした

東洋経済オンライン / 2024年9月29日 9時30分

(恋しさが、些事に気が散って紛れるくらいのものならば、再びあなたにお目にかかるでしょうか。紛れなどしないから、またお逢いしたいのです)

『後拾遺和歌集』に収録された歌だ。詞書に「堀川右大臣のもとにつかはしける」とあることから、相手は道長の次男で、源明子を母に持つ藤原頼宗だということがわかる。

母譲りの巧みな和歌を武器に、賢子は有望な貴公子たちの心を次から次へとつかんでいった。

賢子が親王の乳母に選ばれたワケ

そうして上流貴族たちに愛されながら、賢子は万寿2(1025)年、道長の兄・道兼の息子である藤原兼隆との間に娘を産んでいる。身分の差から、いわゆる「結婚」とは呼べないものだったとする見解もあるが、出産したことは確からしい。『栄華物語』には、次のように書かれている。

「大宮(彰子)の御方の、紫式部が女の越後弁(賢子)、左衛門督(藤原兼隆)の御子生みたる、それぞ仕うまつりける」

すると、同年に東宮・敦良親王に第1皇子にあたる親仁親王も誕生。生んだ母親は道長の娘で彰子の妹、嬉子だったが、出産前に赤裳瘡を患い、2日後に死亡。さらに、乳母に決まっていた女房までもが赤裳瘡によって辞退したため、賢子が乳母の1人に選ばれることとなった。

選出された理由は「母の式部が有名だったから」とも「兼隆との子を生んだばかりだったから」とも言われている。おそらくその両方だろう。

賢子が最後に選んだ相手

そんな男性遍歴を重ねたのち、賢子は長暦元(1037)年頃に高階成章の妻となる。そして、親仁親王が即位して後冷泉天皇となると、賢子には三位典侍(さんみのすけ)の官位が与えられた。下級貴族の娘としては、これ以上ない位まで上り詰めたといえるだろう。

その後、後冷泉天皇の治世において、夫の成章は受領として最高の大宰大弐となり、その翌年には従三位を与えられている。夫の官名と自身の官位から、賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになった。

男性遍歴の果てに賢子が結婚した成章は、地方官を歴任していた。ひたすら蓄財に励んだことから「欲大弐」(『尊卑分脈』より)と陰口を言われていたという。

そんな夫だったから、成章が67歳頃で死去したのちに、十分な遺産を手にしたと思われる。安心のシニアライフを満喫しながら、賢子は80歳を超える長寿をまっとうした。
 
【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください