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愛嬌ある「団子鼻」が目印、元祖新幹線0系の記憶 試運転から国鉄時代の全盛期、晩年の姿まで

東洋経済オンライン / 2024年10月3日 7時0分

食堂車は「ひかり」用の16両編成の8号車に連結され、列車内を移動する客がテーブルの間を通り抜けることがないよう、通路を山側(東京から博多に向かって右側)に設けて食堂スペースを仕切った構造とした。

営業開始時、国鉄は「レストラン210km/h」と銘打ってPRした。だが、当初は通路との仕切り壁に窓がなかったため「富士山が見えない」との不満が国鉄に寄せられた。このため1979年10月から通路に窓を設ける改良が行われ、富士山を見ながら食事が楽しめるようになった。食事は帝国ホテル、都ホテルといった一流ホテルをはじめとする業者が提供して味を競った。

0系は東海道新幹線の開業時から国鉄分割民営化直前の1986年まで製造が続き、1976年以降の車両は窓が小型化されるなどの仕様変更を行いつつ総計3216両が登場。長きにわたって新幹線の顔として君臨した。

だが、1985年に初のフルモデルチェンジ車として2階建て食堂車を連結する100系が登場すると主役の座を譲り、次第に第一線から退くこととなった。さらに、1992年には最高時速270kmで走る300系「のぞみ」が登場。最高時速220kmの0系は、高速化するダイヤの中では運行の妨げとなることから、急激に姿を消していった。300系が0系を淘汰に導いた車両でもあった。

そして1999年9月18日、0系は開業以来走り続けてきた東海道新幹線区間から惜しまれつつ引退の日を迎えた。この時点では、JR西日本の山陽新幹線区間に短編成の0系が「こだま」「ウエストひかり」などで残っていたが、それも老朽化によって2008年12月14日に引退し、東海道・山陽新幹線の初代車両であった0系は40年以上にわたる営業運転を終了した。

「つまらない新幹線」追い続け

世界初の超高速列車であり、長期間にわたって大量に製造され長年活躍を続けた0系は、営業運転終了から15年以上を経た今も親しまれ続けている。デザイン、性能ともに優れた、完成度の高い車両であった証しであろう。

筆者が昭和40年代後半から本格的に新幹線を撮り始めた頃、鉄道ファンの多くは新幹線には興味を示さなかった。同一形式の電車だけが走り、在来線と比べれば旅情もないと思われていた新幹線は、ほとんどのファンにとって興味(趣味)の対象外だったのだ。

当初SLを主な被写体としていた筆者はその頃から近代車両も多く取材するようになったが、「つまらない新幹線」を撮るカメラマンとして同業者からは「変人」扱いされてきた。したがって、新幹線の撮影では沿線の撮影場所を開拓するところから始まった。

筆者が撮影した0系の写真は、その頃の趣味人がいう「つまらない新幹線」の記録である。今となっては、その「開拓者魂」が新幹線取材をライフワークにまでしたと思っている。

南 正時:鉄道写真家

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