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栄華を極める「藤原道長」裏にある"大病との闘い" 一条天皇に出家を願い出ることもあったが…

東洋経済オンライン / 2024年10月12日 10時0分

病を患った一方で、道長は権力をより強化するために画策します。999年11月1日、道長は長女の彰子を一条天皇のもとに入内させるのです。

この時点で一条天皇の後宮には、定子(藤原道隆の娘)、尊子(藤原道兼の娘)、義子(内大臣・藤原公季の娘)、元子(右大臣・藤原顕光の娘)がおりました。彰子にはライバルが沢山いたと言えるでしょう。

一方で、このときはまだ誰も皇子は産んでいませんでした。病み上がりの道長にとって、長女・彰子の入内は朗報だったと言えるでしょう。

彰子の入内に従ったのは、女房40名、童女6名・雑用担当者6名でした。紫式部はこの5年くらい後に、女房として仕えることになります。彰子は、15センチ以上の黒髪の美人で、12歳とは思えないほどの落ち着きぶりだったと言います。

さて、彰子の入内からしばらくして、中宮定子が皇子を出産します。敦康親王です。

道長は、皇子の7夜の産養(子供の将来の多幸と産婦の無病息災を祈る儀式)に奉仕しています。

しかし、内心は複雑な感情が渦巻いていたと思われます。長女・彰子にも早く皇子が誕生してほしいという思いとともに、もしそれが難しい場合は、自分が敦康親王の後見人になることも考えたのかもしれません。

後宮での彰子の立場を高めたい道長は、彰子の立后に向けて動いていました。

このとき、すでに定子が中宮の座についていました。彰子が立后したら、1人の天皇に、中宮が2人並び立つ事態になってしまいます。

ところが、定子は出家している身のため、国のための神事を行うことができません。よって「日本は神国であり、神事を重視すべき」との考えから、彰子の立后を主張する人もいました。

そこで1人の天皇に2人の后が並び立つ前例のないことを前に、対策が講じられます。彰子を中宮として、定子を皇后にするというのです。

そして1000年2月、彰子はついに中宮となります。史上初の「一帝二后」が実現したのです。

しかし、それは長くは続きませんでした。定子は同年12月に媄子内親王を出産しましたが、出産直後に亡くなってしまったのです。25歳という若さでした。

またもや体調を崩した道長

そして彰子の立后後、道長も体調を崩していました。またもや、重病となった道長は、政務を右大臣に任せることにします。天皇は道長の身を案じ、今度は100人の僧侶を道長に与えました。

道長は左大臣でしたが、左大臣の辞職も許されます(病平癒後には復職しました)。

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