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「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略 第1皇子の敦康親王が皇太子になるはずが…

東洋経済オンライン / 2024年10月13日 9時30分

生後50日目を祝う「五十日(いか)のお祝い」が寛弘5(1008)年11月に執り行われると、道長は大はしゃぎ。妻の倫子が呆れて退出するほどだった。

道長からすれば、自ら大喜びして、お祝いムード一色にすることで「当然、自分の孫である皇太子になるべきだ」という空気を作ろうしたのではないだろうか。意識したのは、言うまでもなく、第1皇子の敦康親王である。

そう考えれば、のちの藤原伊周の異常な行動も理解できる。伊周は、道長の兄・道隆の息子で、道長にとっては甥にあたる。伊周からすれば、敦康親王は、亡き妹の定子が忘れ形見として残した、一条天皇の第1皇子だ。皇位継承者になるのは、当然だという思いがあった。

このまま道長にしてやられるわけにはいかない。そんな焦りからだろう。道長が浮かれた「五十日(いか)のお祝い」から約50日後、寛弘5(1008)年12月20日に、今度は敦成親王の生後100日を祝う「百日(ももか)の儀」が開かれた。

藤原行成が公卿たちの詠んだ歌に序題をつけようとすると、伊周はやおら行成から筆をとりあげて「第二皇子百日の嘉辰……」と書き始めた。敦成親王が一条天皇にとって2人目の皇子だ、と強調することで、第1皇子である敦康親王の存在を訴えるパフォーマンスを行ったのだ。

道長は『御堂関白記』に「人々、相寄(あや)しむ」と不快感をあらわにしたが、道長が喜びを爆発させた「五十日(いか)のお祝い」を受けての、伊周なりのアンサーソングだったのではないだろうか。

人生が暗転した敦康親王の悲劇

そんな奮闘むなしく、伊周は失速していく。寛弘6(1009)年正月30日、彰子や敦成への呪詛が発覚したのだ。

藤原行成が記した日記『権記』では、同年2月4日付で「中宮に厭術(えんじゅつ)を施した法師円能(えんのう)を捕え出した」とあるように、円能という法師が、呪詛を行ったとして捕縛された。

その翌日には、円能に呪詛を依頼したとして、伊周の叔母・高階光子と、伊周の義理の兄・源方理が逮捕。親戚が犯行に及んだことから、伊周は一条天皇から朝参停止を命じられることとなる。

一条天皇としては、最愛の亡き定子の兄である伊周の処分は、避けたかったことだろう。だが、妻の彰子や子の敦成が呪詛され、その対象が道長にも及んだとなれば、かばうことは難しい。苦渋の決断を下したからか、同年2月18日から一条天皇は病悩し、25日には悪化したと『権記』には記されている。

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