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「孫を皇太子にした道長」あまりに強引すぎる策略 第1皇子の敦康親王が皇太子になるはずが…

東洋経済オンライン / 2024年10月13日 9時30分

このとき数え11歳だった敦康親王も不穏なムードを感じて、思うところがあったのだろう。一条天皇と同じく18日から体調を崩す。

やがて非情にも、敦康は彰子のもとから引き離される。そのうえ、彰子が一条天皇の子を再び懐妊。予定されていた敦康の元服は延期されることとなった。

同年11月25日、彰子は第3皇子となる敦良親王を出産する。敦成親王については懐妊するまでには時間がかかり、出産自体も難産だったが、敦良親王は懐妊も出産自体もスムーズだった。

道長は藤原実資にこんな思いを口にしたという。実資が残した日記『小右記』(11月25日付)に記されている。

「寅刻の頃から、出産の気配があった。今、この時に臨んで、少しの苦痛もなく、安らかに遂げられた。このたびについては、男女を考えず、ただ平安を祈るのみだった。ところが平安に遂げられた上に、また、男子が生まれたという喜びがある」

(寅剋ばかりより、其の気色気色有り。今、此の時に臨み、幾くの悩気無く、平安かに遂げ給ふ。今般に至りては男女を顧ず、只、平安を祈る。而るに平らかに遂げ給ふ上、又、男子の喜び有り)

なかなか彰子に子が生まれず、命がけで御岳詣をした日から3年足らずで、状況は大きく変わった。道長の人生が大きく好転するなかで、年が明けて寛弘7(1010)年正月28日、呪詛の発覚から約1年後に伊周は死去。

その年の7月に、延び延びになっていた敦康の元服がようやく行われることになる。敦康は三品大宰帥に任ぜられた。

元服とは、男子が一人前になったことを祝って行う儀式である。だが、敦康にとっては晴れやかさよりも、暗雲垂れ込める我が身に、ただただ不安を募らせたことだろう。

次の皇太子を巡る争い

次の皇太子は敦康親王か、あるいは、敦成親王か――。

寛弘8(1011)年5月22日、彰子のもとに渡った日に一条天皇が病に倒れると、譲位後について、いよいよ決めなければならなくなった。

一条天皇の次に天皇になるのは皇太子である居貞親王だとして、さらにその次に天皇になる皇太子を決めなければならない。

順番でいけば、第1皇子である敦康親王だ。一条天皇も亡き定子との子、敦康親王のほうを跡継ぎにしたがったようだ。スムーズに決まりそうなものだが、道長は行成を通じて、敦成親王を立太子すべきだと提言している。

理屈としては、結局のところ、敦康を皇太子に据えたところで後ろ盾となる者がいない。行成は「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうか」だと強調。敦康のことを考えると、周囲の支援も十分ではないなかで皇太子にするよりも、年給などの待遇面で優遇したほうが本人のためだとした。

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