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ノンスタ石田の「漫才か、漫才じゃないか」の答え やすきよ大師匠の掛け合いにみる「漫才の原点」

東洋経済オンライン / 2024年10月24日 14時0分

僕が「NON STYLEのコント」と言われると違和感を覚えるのは、コント漫才よりも漫才コントをやることが多いからです。

NON STYLEにも、場面設定をしたうえで漫才に入るネタはたくさんあります。ただ、コントの設定の中にいる時間よりも、漫才、つまり素の自分たちのしゃべくりをしている時間のほうが長いんです。

たとえば、2008年のM-1決勝で1本目に披露したネタ「人命救助」は、「川で少年が溺れているのを発見したらどうする?」という井上の振りで始まります。

そこから「少年を助けるために携帯で救急車を呼ぶ」という場面設定になります。

石田:頭痛いので救急車1台
井上:お前のために呼ばんでええねん。少年のこと聞いてくんねん。少年の意識はありますか?


石田:意識はないです。あともうやる気もないです
井上:お前の話はいらん! 息はしていますか?
石田:息はしていません! てか息が合っていません!
井上:俺らの話はどうでもええねん!

このように、僕は「携帯で救急車を呼ぶ」という設定の中でも、「もうやる気もないです」「息が合っていません!」と、「素の石田」としてボケて、それを「素の井上」が突っ込みます。

つまり、「設定上の井上・設定上の石田」になったり、「素の井上・素の石田」に戻ったりを繰り返しているわけです。

一方、コント漫才では「素の自分」に戻ることなく「設定上の役柄」を演じ切ります。それを見事に成立させている代表格は、サンドウィッチマンの「ピザ屋」のネタですね。

このネタでは富澤(たけし)さんも伊達(みきお)さんも、素の自分をいっさい見せることなく、ピザ屋の店員とお客さんという役柄を最後まで演じています。コント漫才では、すでにボケとツッコミが場面設定を共有している一種の共犯関係にあり、あくまでもツッコミは「コント内のキャラクター」として振る舞うことになります。

漫才的なストレートな表現が不自然に

そこでは本来、「コント的なツッコミ」しかできません。設定を共有したうえでのツッコミなので、あまり激しくできない。ボケを仕掛けられて被害者になってしまったイライラを、漫才的にストレートに表現すると不自然になってしまうんです。

ツッコミ側が場面を共有していることで被害者感が薄れているので、「今、初めて言われた」「ふいに理不尽なことをされた」みたいな顔をして突っ込んでも、うそっぽくなってしまうんですよね。そんな反応にならんやろ、と。

「共闘」の割合が大きくなればなるほど、「織り込み済み」ということになり、ツッコミがボケの被害者としてイラつく理由がなくなってしまう。コント漫才では、基本的に、いかにも漫才的な強いツッコミがしづらいんです。

にもかかわらず、なぜサンドウィッチマンのネタが漫才として爆笑をとれるのか。意外に思われるかもしれませんが、そこで大きなファクターとなっているのは、伊達さんの風貌やと僕は見ています。

伊達さんがちょっとコワモテやからこそ、設定上の役柄として言う「ふざけんなよ!」みたいなシンプルなツッコミを、不自然でなく、漫才らしく強めに響かせることができる。だから見ているほうも、違和感なく素直に笑えるんちゃうかなと思います。

石田 明:お笑いコンビ「NON STYLE」のボケ、ネタ作り担当

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