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禅僧が「終活フェア」で目にしたシュールな光景 「死んでも生きる気マンマン」の来場者たち

東洋経済オンライン / 2024年10月30日 15時30分

「終活」は、単に死ぬまでの面倒をタネにした商売にすぎないという(写真:ray/PIXTA)

残された遺族に迷惑をかけないため、最後まで自分らしく人生を終えるためなど、「終活」に取り組む人にはさまざまな理由がありますが、その根底には「肉体がなくなった後もここではないどこかで『自分』は続き、姿を変えた自分が残る」という錯覚があるのではないかと、禅僧の南直哉氏は指摘します。

そんな南氏が、市場規模が年間1兆円ともいわれる「終活」ビジネスの現場で目にした奇妙な光景とは。

※本稿は、南氏の著書『新版 禅僧が教える心がラクになる生き方』から、一部を抜粋・編集してお届けします。

死を乗り越えようとしなくていい

「自分」とは、人間がこの世に存在するために、仮に使わなければいけない舟のようなものだと私は考えます。

人がこの世にある限りは、どうしても乗らなければ生きられない乗り物。それが、「自分」という舟です。たとえ嫌でも、その舟に乗らなければ、人は生きていくことはできません。

舟そのものにも価値があると、思っている人は多いでしょう。しかし、川を渡れるから舟には価値があるのであって、「舟そのもの」に価値があるわけではありません。

道具がお役御免になれば、捨ててもかまいません。舟も乗り捨てです。価値がないのであれば、舟を乗り捨てても、まったく惜しくはないはずです。

だから、川を渡りきって人生が終わるときも、怖れたり、悲しんだりすることはありません。未練を持つことなく、スッと向こう岸に降りることができます。

「かけがえのない人生」なんて、ただの思い込み

「かけがえのない人生」と言いますが、しょせん自分の思い込みです。人生で最大の仕事は何かと言えば、死ぬことです。なぜそれが大仕事かといえば、「死」の正体が誰ひとりわかっていないからです。

死の正体がわかれば、手の打ちようはあります。でも、その大仕事の正体は一切わからないし、生きている限り、わかりようもありません。

ぜんそくで苦しんでいた子どもの頃、死の正体がどうしても知りたかった私は、周囲の大人に手当たり次第「死ぬって、どういうこと?」と聞いてみました。

すると決まって、「お星様になるんだよ」「天国のお花畑に行くんだよ」などと答えが返ってきました。子ども心に、「何を言っているんだ? コイツはバカなのか!?」と不信感を抱いたことを覚えています。

私が知りたかったのは死んだ後の話ではありません。しかし、誰も私の疑問に答えてくれる大人はいませんでした。私は、「そうか、死とは、誰にもわからないものなんだな」と理解しました。

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