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「道長vs三条天皇」徐々に生じた"2人の大きな溝" 「一帝二后」を自ら主導した三条天皇の策略

東洋経済オンライン / 2024年11月3日 7時50分

実質的に関白のような権力を持っていた道長は、あえて関白につくメリットはなく、三条天皇もそれを承知で、少しでも自分のコントロール下に置こうとしたのだろう。

三条天皇の再三の説得をしのいだ道長。やむなく諦めた三条天皇から道長に、内覧宣旨が下されることとなった。

三条天皇とのファーストラウンドを制したかに見えた道長だったが、戦いはここからだった。

三条天皇は1012(長和元)年2月14日に道長の次女・妍子を中宮としたが、3月に入ると、長年連れ添った妻・娍子も皇后としたのである。

「一帝二后」を自ら主導した三条天皇

かつて道長は、一条天皇には定子という中宮がいたにもかかわらず、娘の彰子を中宮とさせて「一帝二后」を実現させた。三条天皇はその逆で、道長の娘を中宮としたあとに、娍子を皇后とすることで、自分から「一帝二后」の状態に持っていったのである。

三条天皇からすれば、一条天皇の4歳年上の従兄弟でありながら、長く皇太子に甘んじていたがゆえに、うっぷんもたまっていたのだろう。即位時には幼帝で、周囲の言うことを聞くしかなかった一条天皇とは、生い立ちがまるで違った。36歳でようやく自分の番がきた三条天皇の意気込みが、道長の反発をも恐れぬ言動につながったようだ。

「土葬にしてほしい」という一条天皇の大切な願いは忘れてしまった道長だったが、三条天皇と対立するたびに、やりやすかった一条天皇の治世が自然と思い出されたのではないだろうか。

2人は対立を深めていき、やがて道長は三条天皇を退位へと追い込むことになる。
 

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

真山 知幸:著述家

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