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「三条天皇に退位迫る」道長の溢れ出す大きな欲望 人事を巡ってもデッドヒートを繰り広げる

東洋経済オンライン / 2024年11月17日 11時0分

三条天皇ゆかりの広隆寺(写真: でじたるらぶ / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第45回は三条天皇と道長の激しい対立に関して解説する。

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三条天皇と道長がうまくいかなかったワケ

一条天皇とは友好的な関係を築けていた藤原道長だったが、三条天皇とはそりが合わなかったらしい。

【写真】道長の息子の顕信は出家して比叡山に。写真は比叡山延暦寺

それも無理はない。一条天皇は数え年にしてたったの7歳で即位。自分が政治を引っ張っていくことができる年齢ではない。

そんな一条天皇を摂政として支えたのが、道長の父・兼家である。また、身の回りのことは、生母で兼家の次女、詮子が取りしきった。周囲に十分なバックアップを受けることを前提としたのが、一条天皇の治世だった。

そこから一条天皇が成長していくにつれて、兼家から長男の道隆、そして3男の道兼へと関白の座が引き継がれたのちに、道長のもとにその座が転がり込んできた。いわば、一条天皇と道長はともにステップアップしていき、将来的には2人で政権を運営していくことになった。

それに引き換え、三条天皇は一条天皇より4歳年上の従兄弟であり、一条天皇の即位とともに、11歳で立太子されるも、そこから実に25年にもわたって、皇太子のままだった。36歳でようやく天皇になれば、自分のしたい政治を行いたいと思うのは当然だろう。

また、一条天皇のときとは違い、三条天皇の治世では、道長はすでに最高権力者の地位にいた。ともに支え合う関係からは程遠く、むしろ、道長の影響力をいかにそぐかという発想になるのも無理はない。

道長の孫・敦成親王が皇太子に据えられていることも、三条天皇からすれば、脅威だった。道長は自分の孫を天皇にさせるため、自分に譲位を迫ってくるのだろうか。そう不安にもなっただろうし、事実、予想通りの展開となる。

人事を巡ってデッドヒートした2人

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