1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

2回も暴力事件「三条天皇の子」に道長が取った策 外孫を皇太子にしたい道長、どう対応した?

東洋経済オンライン / 2024年11月24日 9時30分

京都御苑(写真: シーサット・リー / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第46回は三条天皇の皇子である敦明親王の素顔と、道長とのエピソードを紹介する。

著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

道長が敦明親王に「皇太子はムリ」といったワケ

藤原道長の傲慢な言い分には、三条天皇も我が耳を疑ったことだろう。退位を迫ってきて自分の孫・敦成親王を天皇に即位させようとしたばかりか、皇太子にも自分の孫を据えろと直接言ってきたのだ。

【写真】自身の子である敦明親王を皇太子に据えることに成功した三条天皇だったが…写真は三条天皇の陵

そもそものきっかけは、長和3(1014)年に2カ月連続で内裏にて火災が発生したことにある。

当時、天災は為政者の不徳に対する天罰だと考えられていた。そのため、道長は異母兄で大納言の道綱とともに「天道、主上を責め奉る由を奏す」(『小右記』)、つまり、「天が三条天皇を責めている」として、三条天皇に退位を迫るようになる。

翌年の長和4(1015)年には、三条天皇の眼病が悪化。諸国の国政に関する重要文書は「官奏」と呼ばれて、太政官から天皇に奏上されるが、それを読むことができなくなり、行政が停滞するといった事態まで起こり始めた。

道長は以前にもまして退位を促すようになり、長和4(1015)年10月2日には、三条天皇は周囲に「この何日か道長からしきりに譲位を迫られている」とこぼしている。

それだけではない。三条天皇には、娍子との間にもうけた敦明親王・敦儀親王・敦平親王・師明親王らがいたが、道長は「東宮に立てるわけにはいきません。その器ではない」と言い放ったという。

そのうえで、一条天皇の第3皇子で、自身の孫でもある敦良親王をプッシュ。天皇に孫の敦成親王を据えると同時に、敦成親王の弟・敦良親王を皇太子にしろ、と言い出したのだから、大胆不敵である。傲慢さここに極まれり。そう思われても仕方がない態度だ。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

複数ページをまたぐ記事です

記事の最終ページでミッション達成してください